2019年6月5日水曜日

『発達』と『適応』は、まったく異なるもの

私が学生だったときですから、もう20年近く前の話になります。
なので、まだ今の特別支援学校で行われているかはわかりませんが、当時、サーキットという授業が盛んに行われていました。
部屋にマットとか、トランポリンとかを置いて、そのコースを子ども達がグルグル回って、回転やジャンプなど、いろんな動きをするやつです。
学生時代、授業の補助として入っていましたので、よく見ていました。


傍目から見れば、子ども達が主体的にコースを周り、いろんな動き、活動をしますので、なんだか良い効果があるように感じました。
実際、学校の先生もそう言っていましたし、大学の教授もそう言っていました。
療育機関でも、盛んにやられていたくらいです。
でも、授業に入り、その子ども達の様子を見ていると、「これで大丈夫かな」と思うようになりました。
まあ、第一、子ども達がサーキットを始めると、先生は部屋を出て、5分くらいしてからタバコの匂いをまとって戻ってきてたくらいですし。


結局、サーキットを始めた数回はいいんです。
しかし、同じコース、動きばかりしていると、子どもの達の意欲というか、姿勢というか、躍動感が段々と失われていくのです。
最初は、自分で動きや体勢などを工夫している様子も見られたのですが、「ただやってます」「こなしてます」みたいな感じになってくる。
つまり、最初は学習だったり、成長だったりするのに、ただの適応になってしまう。
だから、それ以上、発達、発展がない。


昨日のブログで、発達援助とは、親子の対話であり、育み合いというようなことを書きました。
ただ単に、発達に必要な刺激だけを与えておけば良いのなら、親子でやる必要はなく、支援者が存在する意義もありません。
ヒトの定型発達の順序、データを入れておいて、それに応じた刺激を子どもに自動的に与え続ける機械で十分なのです。
でも、実際は、そういった機械的な刺激では、より良い発達は見られないでしょう。
何故なら、それこそ、発達ではなく、刺激への適応になってしまうから。


いろんな人達とお話ししていますと、発達の捉え方が違うような気がします。
「刺激→反応→発達」というようなシンプルなものではなく、もっと複雑で、揺らぎがあり、個別的なものだと私は思うのです。
確かに、「定型発達」などという言葉もありますし、支援者としては、ヒトの発達の定型、流れはしっかり捉えておく必要があります。
しかし、その定型だって、大まかなもの。
一人ひとりの発達を細かく見ていけば、そこにその人特有の発達というものがあります。
大まかな定型、流れはあるけれども、発達にだって個性があるのだと思います。
もちろん、「障害が個性」などと訳のわからないことを言っているわけではありません。
発達の道筋、物語のことです。


結局、私達は、子ども達に適応させようとしているのではなく、発達してもらおうと考えているのです。
少なからず、「発達援助」「治る」を目指している人達は。
そうなると、やっぱり単一的な刺激のやりとりではいけないのだといえます。
同じ身体を揺らすにしても、「こうしたら、どう?」「このくらいの強さなら、どう?」「もっとやろうか、やめようか」といった対話が重要になってくる。


何故なら、発達とは揺らぎ、常に変化があるものだから。
そして何よりも、個別的なもの。
昨日の心地良さ、発達に必要な刺激が、今日も、今この瞬間も同じだとはいえません。
生きていない者は、発達しない。
生きている限り、発達する。
つまり、発達も生きている。
そうなると当然、刺激自体も生きている必要がある。
どっかの養護学校みたいに、同じコースをただ回らせておいて、そのうちにちょっと休憩みたいなのでは、発達は生じないのです。
刺激自体が死んでいるから。
刺激に息吹を感じられないから。


私が子育て支援にこだわるのは、まさにこういった理由からです。
親御さんには、子育てを通して、子どもさんの発達を後押ししてもらいたい。
ただ単に、第三者が作った枠に当てはめるような適応を目指すのではなく。
適応と発達は、明確に違うと私は考えています。


親子だからこそ、支援者なんかよりも、丁寧に、ゆっくり、その子に合わせた発達の促し方ができるはずです。
そのための対話であり、育み合いです。
発達刺激に想いを込められるし、想いを汲められるのが、親子の強み。
イキイキとした刺激が、子どものイキイキとした発達に繋がるのだと思います。
発達は生き物なのですから、刺激も生きていなければなりません。

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