2019年6月14日金曜日

「治った」主観と「治らない」主観

自閉症、発達障害は、DSM-5にて神経発達障害になりました。
でも、未だに「脳の機能障害」「生来的な障害」と言われています。
また、それが「生涯、治らない」という根拠にもなっているようです。


脳の機能障害で、生まれつきの障害ということに疑問を持たず、信じている人達が大勢いるのはわかります。
しかし、世の中に、「この子の障害は、脳の機能の問題からである」と確認できた人はいないのです。


現在の診断は、行動観察と問診で行われています。
診察室や検査室で、自閉症の子どもに見られる行動が確認できた。
しかも、診断基準に当てはまる行動が複数確認できた。
親御さんからの成育歴、生活の様子からも、自閉症のようだ。
じゃあ、あなたは自閉症ね、年齢が幼かったり、はっきり確認できなければ、自閉傾向ね、軽度の発達障害ね、となる。


でも、ここで気を付けないといけないのは、自閉症に見られる行動があった=自閉症だと言い切れるのか?
はたまた、自閉症に見られる行動があった=脳の機能障害だと言い切れるのか?
ということです。
脳内の機能を調べたわけではないのです。
自閉症に見られる行動が確認できた、というだけなのに。
子どもが見せたその行動が、脳内を確認したわけではないのに、どうして「脳の機能障害」と言い切れるのでしょうか。
立ち合い出産をしたわけではない人が、どうして「生まれつき」と判断でしょうか。
つまり、それくらい今の診断というのは、曖昧なものであり、主観が入る余地があるといえるのです。


ヒトは、受精した瞬間から発達を始めます。
そして死ぬその瞬間まで。
しかも、その発達の仕方は、個人の資質によって、また環境からの影響を大きく受けるのです。
そんな複雑で、一瞬たりとも同じ状態が生じない発達を、人為的に捉えようなどというのは無理な話です。
だからこそ、行動観察と問診というざっくりした大枠でしか捉えることができていないのです。


こういったざっくりとした診断しかできていない現状です。
なのに、表れる行動のすべての原因が、「脳の機能障害」と結論付けられています。
そのことに、どうしてもっと多くの人が気づかないのか、疑問に思わないのか、がギモンです。
唯一の根拠が、「医師がそういったから」
でも、その医師だって、脳内を調べたわけでも、受精した瞬間からのすべてを見ていたわけではない。
見たのは、その診察室での行動と、親御さんからの話。


極端なことを言えば、診断を受けなければ、自閉症にも、発達障害にもならないのが現状です。
昨日の「困り感」じゃないですが、本人が困っていなければ、医療や相談機関にかかることはありません。
ということは、自閉症か、発達障害かを決めるのは医師ですが、結局のところ、本人次第、家族次第ということになります。
いくら発達に凸凹があろうとも、本人が問題なく生活できていれば良いわけです。
いくら出生段階で発達の遅れがあろうとも、その後の生活の中で遅れている部分を育てていければ良いわけです。


こんなことを書くと、「療育機関に通わせないのはダメな親だ」「診断を受けないというのは、受容できていない証拠だ」などという人がいます。
でも、じゃあ、その療育機関に行って、診断を受けて、現状の子ども達、大人たちは発達が加速しているのか、いわゆる問題行動が解決できているのか、将来、自立できているのか、と問いたいと思います。
目に見える行動が、本当に脳の機能障害から来ているものなのかを調べることなく、「はい、脳の機能障害ですね」「はい、生まれつきで治りませんから」「はい、この子は療育、支援を受けてください」というファミレスのマニュアル対応みたいなことでいいのでしょうか。


もしかしたら、生まれつきでも、脳の機能の問題ではないかもしれません。
ただの未発達、未経験ということも考えられます。
発達マーカーの中で、抜かしたものがあり、そのため、うまく発達が繋がっていないのかもしれません。
栄養だって、刺激だって、愛着だって、環境面からの影響だって考えられます。
それなのに、専門家が言うから、言ったから、「脳の機能障害」じゃんじゃん、で良いのでしょうか。


支援者の一人として思うのは、本人の主観に寄り添うことの大切さです。
結局のところ、障害を確定するものは何もないのです。
だったら、本人の訴えであり、願いに応えていくのが支援者としての役目だと思います。
つまり、本人の主観が何よりも大切であるということ。
本人が「治った」「良くなった」というのなら、それが正解であり、すべてだと思います。


当然、「治った」も主観です。
でも、「治らない」「あなたは自閉症、発達障害」というのも、ある意味、主観です。
違いがあるとすれば、本人の主観か、他人の主観か、という点。
だったら、本人が以前よりも良くなったと感じ、「生きやすくなったな」「心地良くなったな」「成長できたな」と思えればいいのです。
支援者の主観を満足させることが、支援の目的、特別支援教育の目的ではないのですから。


一方で親御さんは、子どもに対し、「こうなってほしい」と願いを持つことは当然だといえます。
それを後押しするのも、支援者の役目です。
ただし、ここでも大事なのは、本人の主観です。
本人が心地良いと感じること、発達の力が向かいたい方向へ後押しすることが大事です。
後々のことを考えて、先回りして教えるのは、発達ではなく、適応を促しているといえます。
もちろん、それ自体は悪いことではありませんが。


親御さんは、世の中で一番我が子の主観に近づける人だと思います。
その親御さんが、子どもさんが感じている「治った」「ラクになった」「成長できた」という主観、想いを感じて、一緒になって「治って嬉しい」「成長を感じれて嬉しい」と言っている。
そのことを否定できる人は、どこにもいないのです。
いるとしたら、その子の障害の理由を客観的に確認し、示すことができる人だけ。
他人の主観が、本人の主観に、家族の主観に勝るわけはないのですから。


「治った」が主観で結構。
家族が「治った」と喜んでいるのなら、それはその家族にとって幸せなこと。
「治ったなんてインチキだ」というのも主観です、しかも、どこの誰だか分からない、その家族の生活、人生にとってはどうでも良い赤の他人の。
「治る」も、「治らない」も同じ主観。
だったら、本人と家族のために尽くすのが、支援者の役割。
主観に優劣はありません。


でも、一つだけ確実に言えるのは、「治った」と言っている人がいること。
「自分は治ったなあ~」「我が子は治ったなあ~」と感じた人がいる、その事実。
専門家やエビデンスは、時代とともに消えていきますが、「治った」人がいた事実は消すことができません。
その「治った」と感じることができて人が見せてくれた背中は、未来の子ども達、これから子育てを行っていく親御さん達の希望になります。
私の人生の時間は、こういった希望のために使いたいと思っています。

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