25%の涙

海外では、発達障害を診断するのは医師だけと決まっていません。
医師免許を持っていない心理士、支援者も、自閉症やADHD、LDなどの診断を行います。
日本では、診断できるのは医師だけですので、不思議に思われる方もいるかもしれません。
でも、視点を変えれば、「医師だけにしか認められていない診断」というのも不思議だといえます。


そもそも、どうして医師にしか診断が認められないのでしょうか。
脳波を取るわけでも、血液を採るわけでもありません。
発達障害は病気ではなく、成育歴&生活の様子の問診と行動観察によって診断されるのです。
医療行為はしないのに、医師にしか認められない診断。
それって不思議じゃありませんか。


問診と行動観察でしたら、数多くの発達障害の人達と関わっている人、より生活に近い状態をたくさん見ている人の方が、的確な診断ができると思います。
診察室で見せる姿は、その人の一部です。
それに診察室で困っているから診断を受けに来たわけではなく、日常生活の中に課題があるからこそ、診断に来ているのです。
その課題を見なければ、本当の診断、判断はできないと思います。


「診察室で補えない部分を問診で確認しているじゃないか」と言われるかもしれません。
でも、それだって親御さんの主観が入ります。
どう頑張っても、我が子の内側の様子をすべて伝えることはできません。
そうすると、やっぱり目に見える行動を、親御さんの表現を使って伝えるしかありません。
診察室で見えない部分は、言葉によって説明される。
その説明を聞いて、診断の根拠にもするわけですから、親御さんの表現の仕方、またそれを聞いた医師の捉え方、解釈の仕方によって診断名が変わる可能性もあるのです。


結局、数値ではなく、言葉で説明されている診断基準というのがあり、その状態像に当てはまるかどうかを見るわけです。
ある行動を見て、それを自閉症の特性か否かと判断する。
その判断には当然、判断を下す人の意思が入るわけです。


自閉症も、ADHDも、LDも、別次元の人間で普通の人とは異なる脳みそ、神経を持って生まれてきたわけではありません。
定型発達と呼ばれる人と同じ人間であり、発達の軸で見れば、定型発達と連続して繋がっている存在です。
ですから、明確に「これが自閉症の行動で、これが定型発達の行動」とは分けることができません。
行動も、状態も、当然、日によって、場面によって変わりますし、子どもなら尚更、日々の発達は目まぐるしく変化しています。


「日本で医師しか診断できないのは、それが利権になっていて、医師会が渡そうとしないからだ」と言うギョーカイメジャーの大学教授がいます。
確かにそのような理由もあるかもしれません。
ただ私は、医師にしかできないようにすることによって、診断名の正当性を担保しているのだと思います。
だって、そもそもの根拠が乏しいから。


「どうして、自閉症なのですか」と尋ねれば、「診断基準に当てはまったから」
「じゃあ、どうして診断基準、その行動が自閉症の特性、様相と判断できたのか」と尋ねれば、「診断基準に書かれた状態像と同じ、近いと判断したから(私が)」としか言えないと思います。
何故、その行動、様相が表れているのか、原因を答えられる人はいませんし、それ自体を示す必要はないのです、現在の診断には。


このように考えると、「診断名ってなんだろう?」と私は思います。
診断を受けることは、療育や支援、行政サービスを受けるための入り口だといえます。
でも、その個人の、その個人の家族の想い、願いとしては、日常生活の困難が解消され、心身がラクになり、より良く発達、成長していけることだと思います。
じゃあ、その想い、願いに寄り添うような形に、現在の診断がなっているのか?


本人や家族が本当に知りたいのは、診断基準に当てはまるかどうかではないと思います。
それよりも、どうしてその行動が表れているか、どうして発達に遅れているか、だと思います。
でも、現在の科学では答えることができない。
だったら、実際により良い方向へと変わった人から、その人と携わっていた実践家から話を聞いたり、アイディアをもらったりするのが自然な流れです。
原因がわからないからこそ、いろんな方法を試し、子育てをしていく。


将来、バイオマーカーが発見され、客観的で科学的な診断ができるようになると思います。
そうなれば、現在、診断を受けている多くの人が、障害者にはならないと思います。
何故なら、未発達ゆえに、発達の遅れが出ている、課題が表れている子ども達までひっくるめて、自閉症等の診断名が付けられているから。


栄養面や刺激、環境面をどう頑張っても、定型発達と呼ばれる状態、ラインまで届かない人もいるはずです。
でも、脳の欠損でも、神経の欠損でもない発達障害なら、まったく発達していかない、ということは考えられません。
そういった意味で、生涯変わることのない障害者である人は限られてくると思います。
発達に遅れがある子の多くは、栄養と環境と育ち方によって、より良く発達することができるし、定型発達のラインを超える子もいるのは当然です。


このような現状の診断にも関わらず、「治らない」と声高々に言い続ける人達がいます。
でも、アメリカのコネチカット大学の研究では、25%くらいの人がASDの診断を受けたにもかかわらず、その診断が外れるくらい状態が変わったと報告されています。
日本では、誤診も、未発達のチャンポンも含まれるので、50%くらいの人は診断基準を満たさないくらいに発達するし、治ると思いますね(真顔)。


だったら、「治らない」と言うことは、「治る」を認めようとしないことは、25%くらいの子ども達の未来を潰していることにもなります。
また、その25%に入らなくても、今よりもより良く育つ可能性がある子の育ちの機会、可能性を奪ってしまう危険性もあります。
因果関係がはっきりしない診断名と共に、医師や専門家が言っているからというだけの「治らない」という言葉と共に、我が子の、将来の社会を担っていく子ども達の可能性を奪ってもいいのでしょうか。


治りたくない人は治らなければいいのです。
でも、その人達に付き合うために、25%の子ども達を犠牲にして良いわけがありません。
今よりも、より良く発達、成長できる子達は100%。

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