発達に人を介する理由

支援は、人以外でも行うことができます。
たとえば、教室や部屋をわかりやすいように、刺激に圧倒されないように、物を配置したり、情報を整理したりするのは、環境側からの支援だといえます。
また、読み書きや学習に困難がある人に対する電子機器、タブレットも支援ですし、身辺面や移動、運動面をサポートする器具、道具も支援だといえます。


このように人を介さない支援は様々ありますし、それらを利用し、より快適に、より自立的に学び、生活している発達障害の方達は多くいます。
これからも、こういったアイディア、モノの発展は続いていくでしょう。
そうなると、今以上に、支援者が行う支援は狭まっていき、その存在意義は問い直されることになると思います。


高齢者の支援には、すでに介護ロボットというようなものが導入されてきています。
近い将来、障害者支援の世界にも、介助ロボが導入されるのは想像に難しくありません。
ロボットならば、虐待やセクハラ、金銭着服などの心配はなくなりますし、支援者の数も今よりも減らせるので、財政的にも良い話だと思います。
わざわざ建物を青くしなくても、社会に理解を求めなくとも、優秀なロボットが生活の質を守ってくれる未来。


私は支援者をやってきたからこそ、 支援者が行える支援の限界と、支援者という役割、価値、意義が薄れていく流れを感じます。
今のような支援しているんだか介護しているんだかわからないようなものは、発達を促しているんだか適応を促しているんだからわからないものは、人以外のモノに取って代わられるはずです。
支援者の多くが外国人になる前に、ロボットになるかもしれません。


そういった流れ、未来が見えているのに、支援者が必死に支援の方法を身に付けようとするのも、親御さんを親ではなく、支援者にさせようとするのも、私は違うと思います。
それこそ、人にしかできない、親御さんにしかできない発達障害を持つ人達との関わり方があるはずです。
まさに、それこそが子育てであり、発達援助。


もちろん、子ども自身、自分に必要な刺激、遊びを知っていて、自ら発達させていくことがほとんどだといえます。
子どもの内側には、自らを発達させる力、自らで発達する力が存在している。
でも、より良い発達、より早い発達には、人との交流、対話が必要なこともあります。
私達は、子ども達により良く育ってほしい、と願うからこそ、懸命に子育てをし、発達の後押しをしているのです。


子どもさんの場合、自ら選択し、環境にアクセスできる機会が限られています。
また発達に遅れがある子やASDの特性を強く持つ子の場合、見たり、聞いたり、体験した利していないものを想像し、自ら求めることが難しいこともあります。
そうなると、同じ刺激を、環境を求め続けることになります。
最初は、発達のための刺激だったものが、いつしか単一的な刺激になり、『発達』ではなく『適応』になってしまう。
発達障害、ASDの子ども達と接する者にとって、この点は十分に配慮しなければなりません。


発達に人を介する理由は、まさにここにあります。
私が、親御さんに「対話が大事」というのも同じです。
我が子に発達を促す遊び、エクササイズを行っている。
そのとき、対話がなければ、一つの心地良い状態で留まってしまう可能性があるのです。


本人が心地良いと言っている。
じゃあ、その心地良い刺激を与え続ける。
それだと、時がくれば、発達から適応に変わってしまいます。
本人が心地良いと言っている。
そのあとに、「じゃあ、こういった遊び方はどう?」「もっといい心地良さがあるかもよ」と誘ってみる。
そうやって対話をしながら、試行錯誤をしながら、その時その時のベストな心地良さ、発達刺激を探っていくことが、子どもさんをより良く育て、発達を促していく方法だと思うのです。


将来、いくら技術や文明が発展しようとも、子育ては人が担い続けるのだと思います。
何故なら、子育ての中にも発達があるから。
発達は生き物であり、対話です。
ただ栄養を与え、ただ刺激を与えていれば、人は育ち、成長するかもしれないが、より良く発達していくことにはならないと思います。


より良い発達には、自発性と好奇心、興味関心が必要です。
つまり、本人の気持ち、心が重要だということ。
そのために、人が人を育てるのです。
心と心の対話が、その子の発達を後押ししていく。
親御さんが心地良いと感じているからこそ、援助を受けている子どもさんも、より心地良さを感じることができる。
そういった相乗効果もあると、私は考えています。


ですから、親御さん自身が健康で元気であること。
前向きで、主体性を持っていること。
なんにでもチャレンジし、試行錯誤できる身体があること。
そして何よりも、我が子を愛し、我が子の幸せを本気で願う気持ちが重要なのです。
心があるからこそ、発達を後押しすることができる。
気を介さない援助は、ただの支援であり、介助であり、人じゃなくて良いのです。

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