困り感を持っているのは、誰?

施設職員だった頃の仕事の一つとして、学校の連絡帳への記入がありました。
毎日、15名ほどの学校の様子を見て、それに返事をしたり、寮での様子を伝えたりします。
あるとき、突然、連絡帳に「困り感」という言葉が現れ、連日のようにその言葉が並ぶようになりました。
それまでは、見たことも、聞いたこともなかった言葉です。


後からわかったのですが、特別支援教育系の雑誌に載った言葉ということでした。
研修や講演会でも、当時、頻繁に使われていたようです。
学んだことをすぐに担任している子ども達に使いたがるのは、学校あるあるです。
長期休みが明けるたびに、言っていること、支援の方向性が変わるのは勘弁してほしい、とよく思ったものです。
子どもはモルモットじゃありませんね。


「困り感」という言葉が現れてから、子ども達は「困り感」を持つ人達になりました。
その当時の担任の先生も、「この子達は、困り感を持っているんです」「学校では、この困り感に対して、〇〇といった支援、教育をしています」「寮では、どのように考えているのですか」などと、困り感前提で話が進んでいました。
「困り感」という言葉が出てくるまでと、出てきた後で、子ども達は変わっていません。
でも、その「困り感」に対する支援、教育が計画され、なされていくようになる。


このように、本人ではなく、他人の考え方、捉え方、もっといえば、主観で物事が決められ、進んでいくことに恐ろしさを感じました。
確かに、知的にも、発達的にも、障害を持っている子ども達ですので、何らかの困難や困っていることがあるのは想像できます。
しかし、それはあくまで私の想像であって、本人からの訴えではありません。
私達が「困難だ」「困っているんだ」と捉えていることでも、本人からしたら困っていないかもしれません。
私達が「困っているはずだ」と思っているところではない部分で、本当は困っているかもしれません。


困っていることのズレは、当然だといえます。
他人がリードする捉え方が、本人の捉え方とピッタリ合うなんてことは不可能です。
本人が感じている世界、捉えている世界は、本人しかわかり得ないのです。
私もよく口頭や連絡帳を通して、「どうして困っているか、わかるのですか?」と尋ねたものです。
もちろん、明確な答えは返ってきませんでしたが。


私は支援者の立場として、意味付けすることの危険性を感じています。
特に、幼いお子さんや言葉の発達に遅れがある方に対しては。
幼いお子さんの場合は、私が行った意味付けによって、行動や成長が引っ張られてしまう危険性があります。
言葉の発達に遅れのある方の場合、本人の意思や尊厳を侵害してしまう危険性があります。
ですから、解釈はしても、意味付けはしてはいけないと考えています。


困っていることは、往々にして本人ではなく、周囲の人が「困っている」という場合があります。
もちろん、一人で学び、生活しているわけではないのですから、周囲が困っていることに対処することも必要です。
しかし、そういった周囲の困り感を出発としたものには根本的な解決、発達が含まれません。
何故なら、主体と一致していないことがほとんどだからです。


主体である本人が、治したいと思っている、発達したいと思っている。
そういった主体があるからこそ、変化が生じるのだと感じています。
周囲がいくら「問題を解決しよう」「発達させよう」と思っても、本人、主体と一致していなければ、実現するのは難しいといえます。
主体のない変化とは、発達ではなく、適応であり、対処であります。
だから、発達援助とは難しいのです。


親御さん、学校の先生、支援者の悩みは、主体とのズレ。
「私は、ここを伸ばしたいと思っている」「ここを育て、発達させたいと思っている」「この行動は、どうしてもやめさせたい」
でも、その想いが、主体の意思と一致しているとは限りません。
発達の順序、流れから言って、“今”じゃないのかもしれません。
私達は、人の中で、時間の中で、文化の中で生きていますが、発達とはそういった概念から解き放たれた次元で生じているのです。
発達には意思があり、自由な存在です。


当時、「困り感」なるものが流行ったのは、それだけ支援や教育で困っている大人たちが多かったということなのでしょう。
本人の「困り感」という名で、自分たちの困難を代弁させていたのだと思います。
そうやって振り返ると、構造化だ、ABAだ、SSTだ、と言われてきたけれども、どれも対処のみで根本解決に至るものは出てきませんでした。
結局、本人の「困った」も、周囲の「困った」も、それを解決するには、発達のヌケを育て直していくしかないのです。


子どもが幼くても、言葉が出ていなくても、発達の声は発していると思います。
どこを育てたいか、今、なにを発達させようとしているのか。
その声を、目や耳、感覚を通して、聞くことが大事です。
私は支援者であり、赤の他人ですので、特にこの声を大切にすることが、本人の尊厳と、本人の発達を保障することにつながると考えています。


困っている主体は誰か?
それを育てたい、発達させたいと考えている主体は誰か?
本人と周囲の人間の発達に対する波長が合ったとき、歯車は勢いよく回り始めます。

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