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やるだけのことはやってから

発達障害の人達と関わるようになってからの最初の10年間くらいは、ギョーカイが推進する標準療法を学んでいました。 良い先生がいれば、全国どこでも出かけて行って学び、トレーニングを受けてきました。 一度はこの目で見てみたいと、NC州へも行きました。 今となっては、どこにあるかわからないような資格や認定書もあります。 たった10年くらいですが、標準療法を学んで気が付いたことは、どの方法も、発達障害を持つ人の根っこには届かないこと。 最先端で、エビデンスのある療法だとしても、課題の根本を解決するわけではありません。 その課題が表に出ないように対処しているのみ。 限られた場面、環境、人との間で課題が見えなくなることはありますが、あくまでその条件がそろっていないいけない。 「良くなった」「改善した」と思えるようなことがあったとしても、よく良く見れば、ただ適応力が上がっただけ。 だから、少しでも条件が変われば、同じ課題が表面化しますし、支援を受け続ける必要が出てくるのです。 いろんな場面で、私も構造化された支援、ABAのアイディア、SSTなどを使いました。 確かに、環境を整えれば、混乱は減り、理解は促進されます。 でも、そこから先が見えてこないのです。 刺激が減れば、構造化で外付けすれば、脳内の余裕が生まれます。 その生まれたスペースに、ABAでスキルを教えても、SSTでスキルを教えても、結局は適応するための知識を増やしているのみでした。 変化に富んだ実践の場面で役に立たないスキルを教えても、本人の生きづらさは改善していきません。 というか、そもそも本人が持つ根本的な課題には触れてはいないのです。 施設でいろんな方たちを見てきましたが、彼らの生きづらさの根っこは、適応できないことではないと感じます。 夜寝られないこと、十分な食事がとれないこと、感覚の過敏性によって刺激に圧倒されること、うまく掴めない感覚によって勘違いや失敗をすること。 刺激を統制することによって、刺激自体を減らすことはできる。 しかし、それは感覚という課題の根っこを解決したとはいえません。 視覚的なアイディアで予定を伝えたり、食事で栄養を摂る大切さを伝えたりすることはできる。 しかし、寝られない身体、食べられない身体、消化できない身体を解決したとはいえません

「治らない」を証明したいのなら、刺激と栄養を満たしてから言ってくださいな

神経発達障害なのだから、神経を育てていけばいいのです。 神経が欠損しているわけではなく、その伸び方、スピードに課題があるのですから。 神経自体の問題じゃなくて、神経の育ち方の問題。 そう考えると、治っていくことが道理に合います。 いくら権威が言おうとも、真理は変えることができません。 神経が育つための条件は、刺激と栄養です。 いくら良い刺激を受けていたとしても、神経の基であるタンパク質、育つための栄養が足りなければ、育っていきません。 反対に、栄養が満ち足りていたとしても、刺激が限られていたり、バリエーションの乏しい単一の刺激だったりすると、育っていきません。 「快食快眠快便が整うと、発達が加速する」 今のように、栄養について情報を得る前も、こういったヒトとしての生活が発達、成長のための前提になることは知られていました。 ですから、いまだに偏食をそのままにしておく人の意味がわかりません。 偏食は障害特性なのか、脳の機能障害ゆえなのか。 施設で働いていたときも、どんなに重度で、激しい行動障害を持っていた人でも、成長していくにつれて偏食は治っていきました。 もちろん、どうしても食べられない物は一つや二つありましたが、思春期くらいになると、なんでも食べるようになります。 入所時、「激しい偏食」「〇〇しか食べません」という子ども達も大勢いましたが、形態や量、食べ方を工夫すると、他にも食べられるものがたくさんあるわけです。 つまり、偏食のほとんどは経験不足。 結局、同じものしか食べさせてこなかったから、大人の方が「これしか食べない」と思いこんでいるから、食べないだけ。 「偏食を治すのは可哀想だ」「偏食も自閉症ゆえだ」 と言われることもありました。 でも、その子の人生を考えたとき、食べられるものが限られている方が、ずっと可哀想です。 しかも、栄養の偏りが心身の傾向と、発達、成長に影響を及ぼすのは当たり前。 特に、内臓系にも発達の遅れが出る子ども達なのですから、私達が想像している以上に、偏食のある子ども達の栄養状態は悪いと考えられます。 吸収率が悪いのなら、同世代の子ども達以上に、たくさんの栄養素を摂り入れる必要があると思いませんかね。 だいたい「発達障害は治らない」という人に限って、子どもを見れば偏食持ち。 食

意図的に刺激の量をアンバランスに

「長所を伸ばすか、短所を無くすか」というのは、よく話題になります。 もちろん、その子の持つ長所を活かし、伸ばし、育んでいくことは大事だと思います。 じゃあ、短所はどうするのか、そのままで良いのでしょうか。 長所を伸ばす一辺倒の育み方で良いのでしょうか。 私は、初めて子どもさんとお会いするとき、「バランスが悪いな」と感じることがあります。 それは、表面に見える身体的なバランス、左右差だけではなく、認知や能力、育ち方全般についてのバランスの悪さです。 「このままの状態で成長していくと、ますますバランスが崩れてしまう」 そんな風に感じるとき、私は長所を伸ばすことよりも、短所を無くしていく、弱い部分を育んでいく方の大切さを伝えるようにしています。 発達障害の子どもに対し、「能(脳)力の凸凹」という表現がなされます。 そして、今までの特別支援教育は、ずっと凸の部分をどう活かしていくか、伸ばしていくか、だったような気がします。 別の言い方をすれば、凹の部分は配慮と支援、教育の対象ではなかったような感じです。 しかし、この既存の長所を活かす特別支援では、なかなか自立できない、仕事ができない、続かない、という現実があるように思えます。 ハナから凹の部分は配慮と支援前提で教育がなされているので、当然、自立するのは難しくなります。 でも、それ以上に、凹の部分をそのままにしておくのは、大きくバランスを崩す結果になると思うのです。 認知は高いけれども、社会性が乏しい。 十分働くだけの能力はあるのに、継続性、コツコツ積み重ねていくことが難しい。 多彩な表現、語彙力をもっているのに、相手の視点を想像できない。 こういったアンバランスさは、ある一面を見れば、「働けるのに」「一人で生活できそうなのに」となりますが、「でも…」があとに続いてしまいます。 こういう若者、成人は少なくないと思います。 私は、長所を伸ばすのは、大事な育みだと思います。 しかし、タイミングによっては、それよりも、短所を無くしていく方に重点を置く時期があると考えています。 「いまの時期は、凸の部分は刺激せず、凹の部分のみを刺激する」というようなこともあり得ます。 結局、凸凹がある子ども達は、その凸凹、バランスの悪さが生きづらさの原因になっているように思えます。

『脳の機能障害』の時代でも治していた人

食事で、栄養で、「発達障害が良くなるわけはない」「治るはずはない」と言う人もいます。 当然、捉え方、考え方は、人それぞれで、こういう人は、食事をただのエネルギー補給にくらいしか考えていないのだろう、と思います。 ガソリンと車、電気と電子機械のような関係性ですかね。 栄養は、人を動かすエネルギーにすぎない。 そういった直線的で、シンプルな考えしか浮かばない人には、生命、発達、ヒトという流動的で複雑系なものとは相性が悪いのでしょう。 「発達障害」とは、一言で言い表すことのできない概念です。 同じ障害名だろうとも、一人ひとりが異なっていて、また、同じ人の中でも日々変化を続けています。 常に流動的で変化が起きている状態、まったく同じ状態が人と人との間にも、その個人の内側においても起こり得ない状態。 まさに、その状態こそが、神経発達障害と言われる所以だろうと思うのです。 発達障害は、複雑な神経の状態像です。 ある意味、掴みどころのないものだといえます。 だからこそ、なおのこと、その掴みどころのないものを「どう掴むか」が問われるのだと思います。 その複雑な概念に対し、掴もうと手を伸ばせるかどうかで、見え方と行動、そして未来が変わってくるのです。 「神経発達障害」と聞いて、『神経』に手を伸ばすか、『発達障害』に手を伸ばすか。 神経は複雑で、掴まえづらいもの。 でも、その複雑な状態の中には、変化があります。 変化、つまり、変わる可能性、息吹を感じられる人が、より良く育んでいこう、治っていくはずだと信じて疑わない人だといえます。 一方で、シンプルにしか物事を捉えれない人、複雑なものに手を出す余白がない人は、変化のない固定したものへ意識が向いていきます。 障害=変わらないもの、という捉え方は、省エネ。 いや、そもそも複雑で、常に変化が生じている生命、発達、ヒトに対して、シンプルな概念を持ってこないと対処できないくらい心身共に枯渇している人ともいえます。 ですから、「発達障害は障害だから治らない」のではなくて、その人の変化、可能性に目を向けられるだけの力がない、結果として治らない、のだと思います。 「神経発達障害」と言われる前は、脳の機能障害と言われていました。 でも、そのときだって、「脳」に注目し、手を伸ばしていた人達がい

施設利用の待機中

施設利用の「待機中」という言葉を聞くと、今でも悲しみの感情が溢れてきます。 それは施設を利用しなければならない事実に対してではなく、健気に待機しているその姿勢に。 学生時代、高校年代くらいになると、「どの施設にしようか」「そろそろ利用希望を出して、待機者名簿に載せてもらおうか」なんていう話を、親御さんの口からよく聞いたものです。 私は、15歳そこらで生活の場、もしかしたら、生涯そこにいるかもしれない施設を決めなくてはならないということに衝撃を受けました。 「この子達には、生涯の支援が必要だ」と、私も信じていた頃です。 成人した方の親御さん達は、「あと何人待ち」「あと何十人待ち」などと言っていました。 入所できずに待機している時間が長くなると、親御さんも不安になります。 ですから、みなさん、定期的に施設に電話し、「今、何番目でしょうか?」と確認していました。 中には、一向に順番が変わらない人もいて、その親御さんは「新しい施設ができたら、優先して入れてくれるって約束を取り付けた」というような方もいらっしゃいました。 学生時代に、こういった話を見聞きしていましたので、施設の待機者名簿に載せる=順番待ちをしている、と私も思っていました。 しかし、その順番待ちに落とし穴があったのです。 確かに、順番は待っているのですが、その順番は、利用希望を出した順ではない。 つまり、施設利用を希望し、待機している人の名簿に載るが、空きが出たら、上から順に「利用どうですか?」と声がかかるのではなくて、その待機者名簿の中から施設側が声を掛けるということ。 あくまで待機者名簿に載るだけであり、早ければ早いほうが先に入れる、長く待てばいつか入れるというものではないのです。 措置制度から契約制度に変わり、本人(家族)と施設は対等な関係になりました。 でも、実際は、選べるだけの施設があれば、「対等」になれるのでしょうが、利用したい人が多くて、施設が少ない状態ですので、力関係ができるのです。 いくら本人、家族が「利用したい」と言っても、それに応えれるだけの施設数も、支援者もいません。 措置時代は、行政が決め、それに従うだけの施設に「断る」という選択肢ができたのです。 そして、「断る」だけではなく、「選ぶ」という選択肢も。 学生時代から知っている方

私達は未来を生きている

「支援があればー」と言っていた人達から見れば、各都道府県に発達支援センターができましたし、政令指定都市、市町村の中にも、相談できる機関ができました。 それに「放課後の過ごし方がー」と、つい15年前くらいまでは言われていたのに、今は知的障害を伴わなくても、児童デイが利用できます。 しかも、学校まで迎えに来てくれて、帰りは送ってもくれる。 「支援者の専門性がー」というのだって、各団体や欧米の大学から資格や認定を受けている支援者が多くなり、明らかに養護学校時代の支援者、教員よりも質も、専門性も向上しているといえます。 情報だって、今、書店に行けば、特別支援コーナーが大々的に設けられているだけでなく、発達障害単独の棚ができ、そこに何百冊もの本が並んでいます。 私が学生時代は、学ぼうと思っても、手に入る書籍は、決められた出版社の決められた顔ぶれが書いたものばかりでした。 今で言えば、ギョーカイ大本営からの声明文みたいな。 そういった限られた情報、専門書を何度も読み直し、日々の実践、関わりの中の答え、アイディアを得ようとしたものです。 当時は、発達障害、自閉症の診断がつけば、親御さんのほとんどは、協会や親の会に入ったものです。 そうやって入ることでしか、情報を得る機会がなかったから。 圧倒的な情報差が、支援者(ギョーカイ)と親御さんにはありました。 だから、平日も、土日も関係なく、無償の奉仕もしたし、講演会のサクラにもなった。 お金も、時間も、労力も、捧げることで、支援者が持っている情報と交換しようとした。 また支援機関、支援者も限られていたため、つながっていること、気にいられることが情報と支援を受けることとイコールになっていたような気がします。 こうやって特別支援の前後を生きていた世代、そのとき、懸命に子育てをされていた親御さん達からすれば、今は、当時の人たちが目指していた未来であり、望んでいた未来だといえます。 そこを私達は生きているのです。 今は、親の会に入らなくても、支援者に気にいられようとしなくても、自らの行動と選択で情報を得ることができます。 大本営以外の書籍もたくさん出ていますし、ネットを使えば、先輩たちや同世代で子育てをしている親御さん達とつながれますし、ブログやツイッターだって読むことができます。 特別支援の世界

そんなに良い方法と、エビデンスがあるというのなら、実際にやっておくんなまし

強度行動障害に対する支援について講演したり、指導したりする人の中で、どれくらいの人間が実際に支援したことがあるのでしょうかね。 私も、研修としてそういった類の講演会やワークショップに参加したことがありますが、「だったら、うちの施設に来て、同じことやってみればいいじゃん」「それで問題行動が収まり、安定するなら、是非やってみてくださいよ」と思うことばかりでした。 人が側を通っただけで、手足、噛みつきが出る人に対して、攻撃が出なかったら、おやつをあげる!?(いやいや、おやつを持っていくだけで、攻撃されるから) 壊せるものはすべて破壊する人に対して、構造化して刺激を減らす!?(いやいや、すでにモノは置けない状況で、部屋には何もないよ) 夜寝れなくて一晩中興奮状態の人に対して、寝る時間をスケジュールで提示する!?(いやいや、寝る時間が分からないんじゃなくて、寝れないことが問題だから) コンサルテーションで有名支援者が来ることもありましたが、すべて教科書通りの机上の空論。 だって、実際に本人を見ないから、怖いからって。 ていうか、実際に指導しているところを見たことがない。 まあ、そんなもんです。 口では何とでも言えます。 だから、現場にいた職員はみんな、コンサルも、研修も、冷めまくっていました。 自分たち以上に、強度行動障害の人と関わっている人間がいない、って。 こういった経験をしてきましたので、私は実践できる人、結果を出せる人しか、信じません。 ね、エラソーに講演している人、資格を与える立場の人が、現場経験がなかったり、問題に対処できなかったりするんですから。 そんなに素晴らしい技法で、エビデンスがあるのなら、目の前の人で、その素晴らしさ、エビデンスを見せてくれって思うのです。 有名支援者の元で指導を受けている、発達障害専門医に定期的に通っている。 それで良くならないのなら、やり方が悪いか、その人に合っていないか、でしょ。 そんなところに通い続けるのは、別の方法、人を探すだけのエネルギーが脳みそ的にも、身体的にもない人だってこと。 つまり、子どもなら、そんなところに通わせ続けられること、より良い道を探してもらえないことが可哀想で仕方がない。 だって、自分の選択ではないから。 大人だったら、治らない支援者、事業所を頼るのは

発達過程に注目しないんだったら、そりゃあ、治せないよね

うちの上の子は、ハイハイをちょっとやっただけで、すぐにつかまり立ちをしました。 つかまり立ち以降も、立ったかと思ったら、すぐに歩き出しました。 そんな我が子の姿を見て、「この子は、運動神経が良いのかもしれない」なんて思い、親バカになったものです。 でも、その親バカ期間はすぐに終わりを迎えました。 歩いている様子が、どうもぎこちがない。 なんだか、無理して歩いているような気がしたんですね。 「ああ、この子は、運動神経が良いんじゃなくて、次々と発達の階段を駆け上っているだけ」 だから、こりゃあ、マズイなと思い、ハイハイや足の指を使う遊びをやったり、素足で公園や砂浜で遊んだり、運動発達を中心に置いた保育園に通わせたりもしました。 今思えば、ハイハイという発達段階が抜けていたのでしょうし、その前の寝返りの仕方、身体の使い方が違ったのでしょう。 そのヌケが埋まってからは、まさに足元、土台からしっかりしたように感じます。 私は発達に関わる仕事をしていましたし、人類の進化なども興味がありました。 ですから、直感的にマズイなと思ったのを、知識と経験が確信まで後押しできたように思えます。 でも、このマズさは、医師や保健師さんには、なかなか伝わらなかったのです。 むしろ、「ちゃんと立って、歩いているから問題ないでしょ」「近頃、ハイハイを飛ばす子が多いから、それもその子のペース、個性かもしれませんね」といった具合です。 たまたま私が上の子のときに出会った人たちが、そういった考えだったのかもしれません。 しかし、「歩ければ、問題ない」「言葉が出てれば、問題ない」といったように、その子の歩んだ発達のプロセスよりも、結果のみにしか注目していないような発言をする人は、少なくないように感じます。 確かに、歩けなかったら、言葉が出なかったら、障害や病気が疑われます。 だけれども、どの時代の、どの国の赤ちゃんも、胎児期と乳幼児期に進化の過程を辿るのです。 人類が始まって、700万年くらい。 その700万年間、脈々と続いていた進化の過程を辿るという発達の流れが、「近頃、多いのよ」「この子の個性かもね」などという軽い表現で当てはまるわけがありません。 人類の歴史から見れば、10年、20年で人に変化が起きるわけはないのですから。 赤ちゃんが歩ける

子ども達の持つ発達する力を信じることから始める

先日の『カンブリア宮殿』では、インフルエンザの新薬が紹介されていました。 すでに耐性菌の話も出てはいますが、従来のタミフルと比べて効きがよく、しかも1回の服用のみで良いそうです。 この薬のおかげで、うなされる期間が短くなり、助かる人も大勢いるのだと思います。 こういった薬を研究し、世に送りだしている人達の努力の結晶が、私達の健康を後押ししているように感じます。 私は、親御さんに対して発達援助を説明する際、医療行為に例え、お伝えすることがあります。 たとえば、発熱があったとき、病院に行くとします。 そうすると、そこで問診や視診、触診などが行われ、「これは風邪だ」「インフルエンザが疑われる」「溶連菌だろう」と見たてが行われる。 そして、多くの場合、薬が処方され、「水分を小まめにとって、寝ていれば治ります」と助言がされます。 2,3日も安静にしていれば、自然と快方に向かい、元気になる。 じゃあ、この場合、治したのは医師なのでしょうか? 医師は、見たて、または検査を行い、原因を特定する。 薬を処方し、助言や注意事項を伝える。 でも、実際に病気を治したのは医師ではありません。 医師に病気を治す力はありません。 治したのは、他でもなく、自分自身。 自分の体内にある免疫細胞と自然治癒力の発露により、健康を取り戻したのです。 身体に傷ができたとき、その傷口を縫うことがあります。 人はぬいぐるみではありませんので、傷口を縫うのは、自然治癒力を発揮しやすいように後押しする行為だといえます。 傷口をくっつけるのは、自分の細胞です。 つまり、発達援助というのは、その子の内側にある自然治癒力、この場合で言えば、発達する力が発揮できるような後押しをすることです。 そのために、栄養面からサポートする、睡眠や生活を整える、伸び悩んでいる根っことなっている発達のヌケを育てる、学びやすい環境を準備する。 これらはすべて、子ども自身が持つ伸びる力を強めるための補助です。 いくら頑張っても、他人がその子の発達を行うことはできないのです。 親を含め、他人ができることは、上記のたとえに出てきた医師と同じです。 見立てと助言、技術転移です。 本当の医師には薬の処方もできます。 なので、子育てを行っていく中で、他人の力を借りる場合には、どの部

「IQは変化しない」という迷信、言い伝え、民話?

知的障害の状態が変化するのは当たり前。 「IQが変わらない」というのは迷信であり、(子どもではなく)大人を慰めるためのもの。 幼児期に「知的障害あり」「重度です」なんていうのは、ああそうですか、今はまだ発達のヌケがあるもんね、くらいで良いのです。 発達のヌケが埋まれば、知的障害の状態が良い方に変わっていくのは自然なこと。 「快食、快眠、快便を整えた」「発達のヌケは、育て直した」「学習の土台、愛着の土台はしっかり育てることができた」「環境を整え、本人が学習できる体制を整えた上で、何年も学びを積み重ねてきた」、それでも、やっぱり知的に障害があるよね、やっぱり中度くらいだね、というのなら、「知的障害がある人」「その部分で配慮や支援が必要な人」となるでしょう。 言葉に遅れがあるから受診する。 そうすれば、知的障害が付くのは当たり前。 でも、それって、一生涯、この子は「知的障害である」ということにはなりませんね。 言葉が遅れて知的障害なら、言葉の遅れを取り戻せば、知的障害だって変わってくる。 結局、言葉の遅れ以外にも、遅れをそのままにしているから、最初についた知的障害のまま。 私が学生の頃は、講演会に行けば、「知的障害、IQは維持できていたら、儲けものと思わないといけませんよ、みなさん」と、よく聞きました。 発達のヌケを育てることなく、対処と啓発、お薬だけでは、知的に発達するわけはありませんからね。 そもそも、同世代の人達と比べれば、勉強の時間が圧倒的に少ない特殊学級に、養護学校。 ですから、年齢が上がっていけばいくほど、軽度は中度になり、中度は重度になる。 専門家が対処と啓発、学校が十分な学びの機会を与えられていない。 そりゃあ、なんのための支援、療育だ、学校だ、となる。 その不満を抑えるために、「IQは維持できて儲けもん」「年齢が上がれば、下がるのは当然」という宣伝をギョーカイ人たちはしていたんですね。 というか、「維持できない」「下がって当たり前」と自分たちで言うってことは、「私達は無力です」と言っているようなものです。 そんなグダグダな専門家が専門家ヅラできてたのが、私が学生時代。 あれから15年くらい経ちますが、その間に、何人も、何十人も、IQが変わっていく人達に会いました。 実際に知能検査の結果を見せても