発達過程に注目しないんだったら、そりゃあ、治せないよね

うちの上の子は、ハイハイをちょっとやっただけで、すぐにつかまり立ちをしました。
つかまり立ち以降も、立ったかと思ったら、すぐに歩き出しました。
そんな我が子の姿を見て、「この子は、運動神経が良いのかもしれない」なんて思い、親バカになったものです。


でも、その親バカ期間はすぐに終わりを迎えました。
歩いている様子が、どうもぎこちがない。
なんだか、無理して歩いているような気がしたんですね。
「ああ、この子は、運動神経が良いんじゃなくて、次々と発達の階段を駆け上っているだけ」
だから、こりゃあ、マズイなと思い、ハイハイや足の指を使う遊びをやったり、素足で公園や砂浜で遊んだり、運動発達を中心に置いた保育園に通わせたりもしました。
今思えば、ハイハイという発達段階が抜けていたのでしょうし、その前の寝返りの仕方、身体の使い方が違ったのでしょう。
そのヌケが埋まってからは、まさに足元、土台からしっかりしたように感じます。


私は発達に関わる仕事をしていましたし、人類の進化なども興味がありました。
ですから、直感的にマズイなと思ったのを、知識と経験が確信まで後押しできたように思えます。
でも、このマズさは、医師や保健師さんには、なかなか伝わらなかったのです。
むしろ、「ちゃんと立って、歩いているから問題ないでしょ」「近頃、ハイハイを飛ばす子が多いから、それもその子のペース、個性かもしれませんね」といった具合です。


たまたま私が上の子のときに出会った人たちが、そういった考えだったのかもしれません。
しかし、「歩ければ、問題ない」「言葉が出てれば、問題ない」といったように、その子の歩んだ発達のプロセスよりも、結果のみにしか注目していないような発言をする人は、少なくないように感じます。


確かに、歩けなかったら、言葉が出なかったら、障害や病気が疑われます。
だけれども、どの時代の、どの国の赤ちゃんも、胎児期と乳幼児期に進化の過程を辿るのです。
人類が始まって、700万年くらい。
その700万年間、脈々と続いていた進化の過程を辿るという発達の流れが、「近頃、多いのよ」「この子の個性かもね」などという軽い表現で当てはまるわけがありません。
人類の歴史から見れば、10年、20年で人に変化が起きるわけはないのですから。


赤ちゃんが歩けるようになるのは、素晴らしいことであり、成長の証だといえます。
でも、その歩き方こそ、注目すべき点だと思うのです。
ちゃんと指で地面を掴んで歩いているか。
ちゃんと身体の軸を中心に歩いているか。
ちゃんと腰が安定して歩いているか。
つまり、歩いている結果ではなく、歩くに至る過程こそ、注視すべきだということです。


私が上の子のときに出会い、感じたように、意外にも専門家と呼ばれる人は、過程を重視していないし、気にしていないこともあります。
そりゃあ、結果だけに注目して、「歩いているから問題ない」と言ってしまうような専門家には、発達障害を治せるわけがないのです。


神経が発達する、まさにそのプロセス、過程に何らかの課題が生じている。
だからこそ、発達障害の子ども達をよりよく育てていくには、そのプロセスに注目し、ヌケている過程があるのなら、そこをやりなおし、埋めていくことが必要になります。
そういった意味で、やっぱり発達障害を治すのは、家庭であり、親御さんだといえるのです。
家庭には過程があり、その過程を見ている親御さんがいるから。


週に1回、数か月に1回しか会わない人には、神経発達のプロセスを見ることができません。
見えるのは、歩いているか、言葉が出ているか、といったような結果のみ。
ですから、専門家を過度に頼る必要はなく、その言動に一喜一憂する必要などないのです。
だって、その診察室で、施設で見えた結果のみからの言動だから。
結果は見ればわかるのですから、むしろ、毎日、見ている親御さんの方が詳しいのですから。
親御さんには、「この子の発達のプロセスを一番見ているのは私です!」という想いで、主体的にどんどん治していってもらいたいと思っています。

コメント

このブログの人気の投稿

【No.1358】体軸が育つ前の子と、育った後の子

【No.1364】『療育整体』を読んで

【No.1370】それを対症療法にするか、根本療法にするかは、受け手側の問題