施設利用の待機中

施設利用の「待機中」という言葉を聞くと、今でも悲しみの感情が溢れてきます。
それは施設を利用しなければならない事実に対してではなく、健気に待機しているその姿勢に。


学生時代、高校年代くらいになると、「どの施設にしようか」「そろそろ利用希望を出して、待機者名簿に載せてもらおうか」なんていう話を、親御さんの口からよく聞いたものです。
私は、15歳そこらで生活の場、もしかしたら、生涯そこにいるかもしれない施設を決めなくてはならないということに衝撃を受けました。
「この子達には、生涯の支援が必要だ」と、私も信じていた頃です。


成人した方の親御さん達は、「あと何人待ち」「あと何十人待ち」などと言っていました。
入所できずに待機している時間が長くなると、親御さんも不安になります。
ですから、みなさん、定期的に施設に電話し、「今、何番目でしょうか?」と確認していました。
中には、一向に順番が変わらない人もいて、その親御さんは「新しい施設ができたら、優先して入れてくれるって約束を取り付けた」というような方もいらっしゃいました。


学生時代に、こういった話を見聞きしていましたので、施設の待機者名簿に載せる=順番待ちをしている、と私も思っていました。
しかし、その順番待ちに落とし穴があったのです。
確かに、順番は待っているのですが、その順番は、利用希望を出した順ではない。
つまり、施設利用を希望し、待機している人の名簿に載るが、空きが出たら、上から順に「利用どうですか?」と声がかかるのではなくて、その待機者名簿の中から施設側が声を掛けるということ。
あくまで待機者名簿に載るだけであり、早ければ早いほうが先に入れる、長く待てばいつか入れるというものではないのです。


措置制度から契約制度に変わり、本人(家族)と施設は対等な関係になりました。
でも、実際は、選べるだけの施設があれば、「対等」になれるのでしょうが、利用したい人が多くて、施設が少ない状態ですので、力関係ができるのです。
いくら本人、家族が「利用したい」と言っても、それに応えれるだけの施設数も、支援者もいません。
措置時代は、行政が決め、それに従うだけの施設に「断る」という選択肢ができたのです。
そして、「断る」だけではなく、「選ぶ」という選択肢も。


学生時代から知っている方達が、まだ施設に入れず、待機中です。
親御さん達は、まだか、まだか、と今も待ち続けている。
当時、支援者たちが言っていた「この子達には、生涯の支援が必要です」「支援を受け続けることが、生活の質、人生を豊かにするのです」と言葉を信じ、支援を受けることを求め、そのために尽力されてきた親御さん達。
泣く泣く高校年代の我が子の人生を「施設での生活」と決めたのに、まだ待機者名簿の中。


こういった方達がいるのに、施設に空きが出れば、すぐに入所者は決まります。
しかも、若い世代の人が選ばれる。
何故なら、長く利用してくれるから。
そして、今の若い世代の人達は、知的障害を伴わない人でも、「障害者」として利用できるから。
端的に言えば、若くて、より軽度の人が選ばれる。


福祉で働いていた人間だからこそ、私は思うのです。
本当に必要な人にこそ、福祉の手を。
本当に困っている人が、安心して利用できる福祉を。
だけれども、措置から契約制度に変わり、福祉がサービス、事業の一つになったのです。


私が経験したこと、見てきた世界は、特殊で狭い世界だと思います。
でも、今を生きる子ども達、親御さん達の中に、同じような思いをする人が出ないとも限りません。
そして何よりも、こういった制度の変化、社会の変化、他人の意思や意向が入る余地のものを無条件に信じ続けるより、確実なもの、大切なものがあるのです。
それは、その子自身をしっかり育てること。
どんな変化が起きようとも、どんな未来がやってこようとも、踏みとどまれる土台と、何度も起き上がることのできる身体です。


「治るって言ったって、軽度の人達の話でしょ」などという人もいます。
でも、「軽度だから治る」というわけではありませんし、重度なら発達のヌケを埋めることも、自立を目指して発達、成長の後押しをすることも無駄だということはありません。
たとえ、福祉を利用することがあったとしても、主導権を奪われず、主体的に選択することができるのです。
「この子は福祉しかない、入所施設しかない」というような考え方ではなく、将来の可能性、選択肢を広げるために、またそれらを主体的に選んでいけるように、子育てを、子どもの発達の後押しをしてもらいたいと願っています。
支援者は、その子の人生まで、責任を持たないのですから。

コメント

このブログの人気の投稿

【No.1358】体軸が育つ前の子と、育った後の子

【No.1364】『療育整体』を読んで

【No.1370】それを対症療法にするか、根本療法にするかは、受け手側の問題