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【No.1367】おススメ動画に出てくる涙ぐむママたちを見て

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ユーチューバーになってからというもの、やたらとおススメに発達障害を持つママの動画が流れてきます。 もちろん、今までもそうやって動画をあげてる親御さんがいるのは知っていたけれども、まったく観る気が起きなかった。 だって邪気に溢れているでしょ(笑) それに勝手に「私は障害者として生きます」宣言がよりによって親にされちゃっている子が不憫で仕方がないから。 でもいくつかの動画を観てみました。 そこで気が付いたのは、編集が上手ってこと(笑) つまり、どんなフラクタル構造化と言えば、現実も編集したいという想いなんですね。 私が見た限りですが、全員、我が子の発達の遅れを受け止めることができていない、そして根本から変わっていくことを諦めている。 別に現時点で遅れているからっていって、1年後も、2年後も、遅れ続けているかはわからないのにね。 だけれども、「遅れ=生涯変わらないモノ」なっているから、編集に「変わるものなら変わりたい」「あのときのあの選択をやめたい」という願望を乗せている。 また編集って「見せたいところを見せる」と同時に、「見せたくないところは見せない」なんですね。 これまたフラクタル構造の「表面に目を向け根本を見ない(見れない)」「自分が見たくないところは見ない(=自分は悪くないと思いたい)」が出ている。 どの子も重度と言うけど、脳のダメージは見えないし、「やれば、本来の発達の流れに戻るよな」って感じ。 でも根本に向き合えないご家庭は(本人の問題じゃなくて)治るのは無理だよな~と思う。 まあ、またまたフラクタル構造で、世の中、こんなご家庭ばっかりで治したくない、治ってほしくない親御さんが大多数なのでしょう。 私が「根本」「根本」というのは、治っていかない、本来の発達の流れに戻っていけない、という理由もあるけれど、根っこという土台の部分が治らなきゃ、結局のところ、発達の凸凹が大きくなって新たな生きづらさが生まれるし、人生で出くわす困難がやってきて倒れたあと、ぽきっと折れちゃって立ち上がれない元発達障害児たちを見てきたから。 そして何よりも、次の世代に影響が出ちゃうでしょ。 まあ、頑張れば、対症療法だけで、〇〇アプローチだけで治る子、元の流れに戻る子はいる。 だけれども、「どうして発達が遅れたのか?」「どうして発達が遅れたままなのか、そこから育っていかなかったのか?」がわか

【No.1366】まずは私たち大人が本気にならなきゃ

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悲観する親御さんを慰め、不安をもつ親御さんに「私が支えます」と言う。 「こういったアプローチがありますよ」と伝え、親御さんに手取り足取り教えてお金をいただく。 結果的によくなったり、変わらなかったり。 よくなれば、「ああ、教えてもらったアプローチが効いたんだ」と親御さんが喜び、変わらなければ「うちの子に合う別のアプローチが(どこかに)あるだろう」と外に意識が向かっていく。 そして年月は過ぎていく。 みなさんはこんな支援、援助、サービスをお求めなのでしょうか。 私も一応、大学を出ているので(笑)、世の中の状況を見て、どんな商売の仕方が儲かるのか、想像することができます。 たぶん、上記のような寄り添い、意識を外へ外へと向かわせるようなサービスのほうがお客さんがくるでしょう。 ちまたのなんとかセンターの支援者のように偽善の優しい言葉を掛けることだってできる。 ちまたの心理カウンセラーのように、偽善の仮面をかぶり、笑顔を振りまくことだってできる。 だけれども、私はそんな仕事はしたくない。 そんな自分の信念を曲げるような商売はしたくない。 散々見てきたじゃないですか。 特別支援が始まって20年、このような親御さんを接待するだけの支援を。 親御さんの心は軽くなるかもしれない。 だけれども、その陰で子ども達の発達や成長、彼らの生活、人生が後回しにされてきたのを。 「支援があれば」が本当だったとしたら、今頃、発達障害をもった人たちも自分の人生を歩んでいけているはずです。 なぜ、幼少期から診断と支援を受け、大人になった今も、誰かの庇護のもと、他人の決定に従い生きているの? 私は根っこから治っていくことを目指しているのだから、自動販売機のような「この症状にはこのアプローチ」みたいな仕事はすることができません。 できたとしても、それは急性期の非常事態がその子や家族に迫っているときだけ。 基本的に発達障害は慢性疾患の部類で、発達を遅らせている根っこから改善していかなければならないものです。 「発達障害は親御さんの頑張りで改善します」と言っている一方で、「発達障害は親御さんの過ちによって悪くなることがある」とは言わない。 私と同じような「治る」を目指している援助者の中にも、そこには触れない人もいる。 そういった人を見かけるたびに「あなたも、親御さんの力、家族の力を見くびっているのか、低く見積

【No.1365】身体アプローチと身体育て

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昨日は下の子の卒園式でした。 お兄ちゃんの卒園式の時は「ちゃんとできるかな」と心配であまり周りが見えていませんでしたが、うちの子だけではなく、クラスの友達、全員の顔とリズム体操(毎年、園活動の集大成として跳び箱や側転、太鼓、駒回しなどを行います)を見ることができました。 兄弟でお世話になった保育園で、ここに通う子ども達と保育士さんから「指先、つま先に神経が通るってどういうことなのか」「躍動する動きはどうやって培われていくか」など、多くのことをその姿から教わったと思います。 神経発達は目で見て動きで確認するだけではなく、「音やにおい、体温や肌の質感など五感を通して感じ、伝わってくるものだ」というのは今後も忘れることのない学びでした。 子ども達は縦横無尽に駆け回る。 そこで行う身体活動自体も難易度が高いものなのに、お互いがぶつかることなく、次々と披露している。 20名近い年長の子ども達が一斉にあれだけ走り回ってもぶつからないというのは、我が身を自在にコントロールできるだけの身体が育っているからだといえます。 どこからどの子がやってくるかはわからない。 つまり、周りの環境自体を変えることはできない。 だからこそ、周囲の環境から独立した自分が必要であり、その独立性は身体の自在性によって確保されている。 「身体を育てる」というのは、その子の独立を守るということです。 身体アプローチの本質もここにあると思います。 身体アプローチはただ発達障害を治すだけのツールではないのです。 感覚過敏や感覚の未発達をそのままにしておくのは、外からの刺激によってその個人が左右されることであり、独立性が揺さぶられるということになります。 発達のヌケだってそうで、自由自在に身体が動かせられなければ、首から上は自分のものだけれども、首から下は借り物の付属物となりかねません。 神経発達症の子ども達の身体を見ると、自分が制御できる部位、機能とそうではない部位と機能が混在してるため、自分と他者が混在してる雰囲気があります。 自分の身体なのに、自分ではない部分がある。 ですから彼らは他者との境界線が曖昧ゆえに、他者や環境と対峙するだけの段階にはなく、それが一言で「社会性の問題」と表現されてしまっているのです。 お世話になった保育園では、なにかトレーニングを行ったわけではなく、四季それぞれの遊びをとことんやりき

【No.1364】『療育整体』を読んで

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従来の知的障害を伴うような自閉症児、発達障害児の親御さん達は共生を求めていました。 一般の人たちに向けて「理解を」 社会に向けて「支援を」 彼らに必要な支援を受けながら、同じ社会の一員として遊び、学び、働き、生活していけることを願っていました。 しかし2005年を境にし、新たな概念として発達障害の枠に入ってきた人たちは、「うちの子に必要な支援があれば、自立できるのに」と考えているように見えました。 『自立するための支援』と『共生するための支援』の違いです。 『自立するための支援』はいつしか特別な支援、特化した支援、個別化した支援へと変貌していきました。 それが発達障害児と定型発達の子ども達とを分けていくことにつながります。 放課後、同じ公園で遊んでいるのに、かたや約束をして集まってきた子ども達、かたや児童デイの車に乗せられてきた子ども達。 同じ地域の同じ学校に通っている子ども達なのに、だったら一緒に遊べばいいのに、支援者の管理のもと同じ児童デイに通っている子ども同士でしか遊ばせない異様さ。 子ども同士もお互い視界に入っているのに、どちらからも関わりを求めようとはしない。 「住む世界が違う」というのは、子ども時代に培われる。 私が子ども時代は、今でいう発達障害と言われる子とも一緒に学び、一緒に遊んでいたものです。 勉強ができなくても排除するわけでもなく、運動が苦手でも自然とハンディをつけながら共に遊びました。 そうやっていろんな子どもがごちゃまぜになって遊び、子ども同士で成長していた時代。 そういった子どもを仲間外れにしようもんなら先生にこっぴどく怒られたものですが、いまは先生が率先して「発達の専門家に診てもらったら」「お薬飲んでみたら」「支援級に行ってみたら」と仲間外れを行っている。 そんな時代だからこそ、親心をもった支援者、専門家が求められるのでしょう。 『療育整体』を考案された松島眞一さんは我が子を楽にしてあげたいその一心で身体に働きかけを行いました。 整体師としての技能を我が子に応用したわけです。 でもその間には大事な親心があった。 整体の技能と発達に課題のある我が子の間をつないだのです。 整体が療育整体へと純化していく過程には「よいとこどり」と「応用」の原型があります。 発達障害に特化したものを行おうとすればするほど、発達障害ばかりが前面に出て、一人の人間と