【No.1365】身体アプローチと身体育て

昨日は下の子の卒園式でした。
お兄ちゃんの卒園式の時は「ちゃんとできるかな」と心配であまり周りが見えていませんでしたが、うちの子だけではなく、クラスの友達、全員の顔とリズム体操(毎年、園活動の集大成として跳び箱や側転、太鼓、駒回しなどを行います)を見ることができました。
兄弟でお世話になった保育園で、ここに通う子ども達と保育士さんから「指先、つま先に神経が通るってどういうことなのか」「躍動する動きはどうやって培われていくか」など、多くのことをその姿から教わったと思います。
神経発達は目で見て動きで確認するだけではなく、「音やにおい、体温や肌の質感など五感を通して感じ、伝わってくるものだ」というのは今後も忘れることのない学びでした。


子ども達は縦横無尽に駆け回る。
そこで行う身体活動自体も難易度が高いものなのに、お互いがぶつかることなく、次々と披露している。
20名近い年長の子ども達が一斉にあれだけ走り回ってもぶつからないというのは、我が身を自在にコントロールできるだけの身体が育っているからだといえます。
どこからどの子がやってくるかはわからない。
つまり、周りの環境自体を変えることはできない。
だからこそ、周囲の環境から独立した自分が必要であり、その独立性は身体の自在性によって確保されている。
「身体を育てる」というのは、その子の独立を守るということです。
身体アプローチの本質もここにあると思います。
身体アプローチはただ発達障害を治すだけのツールではないのです。


感覚過敏や感覚の未発達をそのままにしておくのは、外からの刺激によってその個人が左右されることであり、独立性が揺さぶられるということになります。
発達のヌケだってそうで、自由自在に身体が動かせられなければ、首から上は自分のものだけれども、首から下は借り物の付属物となりかねません。
神経発達症の子ども達の身体を見ると、自分が制御できる部位、機能とそうではない部位と機能が混在してるため、自分と他者が混在してる雰囲気があります。
自分の身体なのに、自分ではない部分がある。
ですから彼らは他者との境界線が曖昧ゆえに、他者や環境と対峙するだけの段階にはなく、それが一言で「社会性の問題」と表現されてしまっているのです。


お世話になった保育園では、なにかトレーニングを行ったわけではなく、四季それぞれの遊びをとことんやりきることで、指先、つま先まで神経が通った躍動する身体が養われました。
こういった自然と同化していくような遊びを就学までやりきれば、発達の課題はそのまま残ることができないでしょう。
入園児の発達の遅れやヌケは、いつしか育ち終わっている。
自然な存在である子ども達は、自然の中で育っていく。
またそういった子ども達を育てていくには、私たち大人も自然に対する畏怖の念を持つ必要があるのでしょう。
自然から離れた養育をしている限り、子ども達の発達の課題は残り続ける。
「〇〇をこれくらいやったら、この子はこうなるだろう」という想いを持つこと自体が子の発達を歪ませる。
自然をコントロールしようとすれば、必ずしっぺ返しが来るのはこの世の道理。


我が子たちだけではなく、親自身も育ててもらった保育園での時間。
卒園式での子ども達のきらめくような笑顔を見ていたら、この子たちが幸せに生きられるような社会を作り、繋いでいきたい、バトンタッチしたいと改めて強く思いました。
私は今までの経験や学んだことを軸に、子ども達ののびやかな発達、成長を守っていきたい。
身体を育て、独立した個を築く。
個が独立できたからこそ、周りの個々とも協調し共感することができる。
そして何よりも自由自在に世界を、また人生を駆け巡ることができるのだから。




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