【No.1407】援助・支援・余計なお世話
発達障害は「マイノリティ」「少数派」と言われていた。 少数派の人たちだからこそ、その一人ひとりの事情や特徴、ニーズに合わせた配慮が必要だと説かれている。 だけれども、診断名を見れば、みんな、「発達障害」で一括り。 しかも、その括りは広がるばかりでとどまることを知らない。 医療や支援の目標は、この国の人全員を、発達障害にすることじゃないかとすら思えてくる。 「健康でいたければ、医者の言うことと逆をする」 「長生きしたければ、病院に行かない」 ここに「発達障害をよくしたければ、病院と支援機関に行かない」が加わるだろう。 「発達障害」は、その対象が「発達」である限り、動きを伴うものである。 しかし、診断基準を見れば、どの項目も固定されている。 文字で表現される限り、動きを捉えることはできず、まるで写メを撮るようにその子の一部分を切り取り、静止させる。 切り取った静止画を見て悪趣味の人たちが「ああ、よく撮れた」と発達障害コレクションを増やしていき、儲け主義の人たちが加工アプリを使って発達障害を盛っていく。 研究対象は決まった形がなければならない。 研究者同士で会話ができないからである。 だけれども、私たち一人ひとりは自分の人生を生きている。 ”発達”は生きているのだから、”発達の遅れ”も生きている。 生きている限り、常に動き、曖昧な存在。 それぞれの人生の目的、幸せが曖昧なように。 発達の遅れが不幸であると、誰が決めたのだろうか。 そもそも発達の遅れというものは、本当に発達が遅れているのだろうか。 その子固有の発達の仕方、育ち方、歩み方だとしたら、「余計なお世話」と言われても仕方がない。 もしかしたら子ども達にとって医療も、支援も、療育も「余計なお世話」かもしれない。 少なからず私の中には余計なお世話をし続けてきた自覚がある。 一人ひとりが示す症状は、バランスをとるために必要不可欠な創造物。 なんの「バランスをとる」といえば、「生きるための」となる。 この世界と折り合いをつけ、生命維持のためにおのおのの症状が生まれる。 だから症状は一定でなく、揺れ動く。 発語がないのは、発語がないことでバランスをとっているように見えることがある。 右脳と左脳とのバランス。 原始的な脳と新しい脳とのバランス。 本能と知性とのバランス。 私の感情と親の感情とのバランス。 人工的な社会と動物であ