2020年10月20日火曜日

【No.1115】専門的な(?)対処法って

「エビデンス」同様、この界隈では「専門性」という言葉がよく出てきます。
「専門的な支援」
「専門的な療育」
「専門性を持った職員が指導を行います」
こうやって強調している様子を見ると、よほどご自身の専門性に疑念を持っているのかと思います(笑)
料理人がいちいち「私、包丁さばきの専門家です」なんて言いませんよね。
まあ、「創作フレンチの店」くらいは言うでしょうが、あえてその専門性を強調したりしません。
そりゃあ、その仕事をしているんだったら、腕の良しあしは別にして専門家には違いないのですから。


あまり他の職業というか、一般的な社会の中で生きていると、自分で自分のことを専門性があるとかないとかは言いません。
だから、この世界に入ってから、ずっと違和感を持っていたんですね。
みんな、恥ずかしげもなく「専門性」という言葉を自分たちに使っているから。
フツー、そういうのって、利用してくれた人とかが評価して言うものだと思うのですが。


そう考えると、なんで特別支援の世界にいる人間が「専門性」にこだわるのかよくわかります。
結局、外からは評価しづらいんですね、特別支援の世界って。
療育でも、支援でも、特定の支援者の関わりでも、本当にそれが子どものポジティブな変化に繋がったかどうかわかりません。
私も20年近くこの世界にいますが、そりゃあ、短期的に、今この瞬間のレベルでいえば、よい変化につながったかなと思うこともありますが、そんなのはわからないし、評価なんてできません。
まあ、これは将来的にネガティブな変化に繋がるな、というのはビシバシ分かりますが(笑)


「よくなった」という姿が、単に本人の発達と成長によるもの。
そういった場合がほとんどだといえます。
週に1回とか、一日1時間とか、療育・支援を受けたからって、なにがどうってことはありませんね。
そんなのでうまくいくなら、早期療育を受けた子ども達が「診断が外れないのはナゼ?」「卒業後の進路が福祉一択なのはナゼ?」「幼いときの問題行動が大人になっても続いているのはナゼ?」
やってもやらなくても変わらないのが大部分。
だから私はいつも「趣味嗜好」と表現してるんですね。


揺れ動く親御さんにとっては、優しい言葉をかけてくれる人が、しかも、その人が自分のことを「専門性がある」って言っているし、専門性がある支援者の人が私に「大丈夫だよ」と言って寄り添ってくれる。
一昔前の結婚詐欺みたいな感じ、「ぼく、東大」「ぼく、年収1千万」。
話を遡れば、そもそも揺れ動かしたのは最初に出会った専門家が不治の病みたいな表現で脅すのが悪いのですが。
「専門」という言葉もそうですが、特別支援の支援者って、その瞬間、その瞬間のみの短期的な存在なんですね。
ほぼやっているのが、親御さんの話を聞く、優しい言葉をかける、ヘタなカウンセラーみたいな別名、問題の先送り。


あとは、高々に(自らが)掲げる専門的な支援・療育は、対処療法。
「うちの子、睡眠障害なんです」
「息子さんは布団に入ってから、なかなか眠れないのですか?」
「そうなんです。布団中でずっとタブレットで動画を観ているんです」
親御さんを否定しないがギョーカイルール、ギョーカイ全体の誤学習なので、「そのタブレットを自由にさせているのが悪いんじゃ」と喉もとまで来てもグッと堪える。
そして「寝る時間を絵で示したらどうですか」というTHE平成の視覚支援、伝統芸能みたいな代々伝わる型を令和のママ達に伝授する。
全国を見渡せば、「眠れる身体を育てよう」という方向で、その子の土台から、根っこから育てようとしている親御さん達が大勢いるのに。
もうすでに、親御さんの興味関心は、根本からの解決に進んでいますね。


私は思います、専門的な対処療法ってなんだろうか、と。
対処の専門、対処の専門家と言うことです。
それは「その場しのぎ」ともいえますので、時間をかけて待つことが大切な発達の仕事は向いていないと思います。
せめて本人自ら対処できるようになるために、子どもさんに、もしくはその親御さんが自力できるような技術転移をしなければ、「仕事をしている」とはいえませんね。
「専門的な」というのが「対処」の前に来るのもおかしな話なんですが、対処法をその子が習得するためではなくて、対処法を受けるためにどこどこに通うというのは理解に苦しみます。


療育機関で「対処」が必要なら、その療育機関に行かなければ、対処する事柄に出会わないからいいわけです。
もし家で対処すべき何らかの出来事があるのなら、そんなものは現場である家で対処をしなければ意味がない。
支援者が家に来てくれて対処してくれるのなら、なんぼか意味があるかもしれませんが、家で対処すべき困ったことがあり、それを療育機関に行き、対処療法を受けることでどうにかしようというのは、アクロバティックな動きすぎ。
療育機関で対処を受けたあと、家で困っていたことが起きなかったとしたら、それは疲れていたか、ちょうどその行動の止め時とタイミングが合っただけですね。
問題行動は、根っこにある課題を根本解決しなければ収まるわけはないのですから。
それは成人以降も続いている問題行動の一つも解決できない今までの特別支援が証明してくれています。
行動障害を持つ人が減らずに増え続けているのも、そうですね。


重い知的障害を持つ自閉症者、発達障害児への支援は、対処で良かったというか、許されていたんですね、数十年前までは。
だって治らないし、教育の効果、受ける意味すらモヤモヤしたものがあったから。
その時代の親御さんからしたら、たとえ対処であっても、何よりも見捨てず関わってくれること、関わり続けてくれることが有難かったのだと想像します。
しかし、もうそんな時代ではありません。


知的障害を持つ子も、認知的にも向上し、同じ状態にとどまり続けるわけではないこと、中には診断名がそぐわなくなるくらいまで育つ子がいることが明らかになりました。
実際、私もそうですが、重度判定だった子が今は大人になって一般就労しているのを知っています。
脳の機能障害から神経発達の不具合に認識が変わり、自閉症の特性と言われていたものが、未発達・ヌケの状態ということが明らかになってきました。
「聴覚過敏はイヤーマフ」という対処が、聴覚の未発達なら育てられるよね、に変わったのです。
ずっとイヤーマフをつけて人生を生きていくよりも、聴覚の未発達を育てて、ラクな耳になったほうがいいと望むのは、親御さんの自然な感情だと思います。


みんな根本解決がわからなかったから、対処法でも「専門」を語ることが許されていたんですね。
でも、その根本的な原因と解決するための育て方がわかった現在、対処法に「専門」という言葉をつけるのは、そして自分たちでそういうのも、より恥ずかしいことだと感じるようになりました。
幼児でもタブレットを使い、学習しているときに、おじさん、おばさんが「私、タブレットを使える専門家」と言うくらい愉快な状況だと思います。


私個人的な感想なのですが、これからの時代、特別支援において「専門」という言葉を使うのは相当勇気がいること、よっぽどの何かがないと難しいと思います。
持っている情報は、そこら辺の支援者も、親御さんも変わりないから。
知識で言えば、子の人生がかかっている親御さんのほうが一生懸命学びますし、収集しているといえます。
そもそも未だに「脳の機能障害」とか言っている支援者がいるくらい情報更新が苦手なのですから。
少なからず、どこの誰でも言えるような対処法しか答えることのできない支援者、支援機関は淘汰されていくでしょう。
対処と根本解決を比べれば、どちらのほうがその子の人生にとって良い選択になるのか、考える必要もないくらい明らかですから。
顔オムツ同様、その役目を終えたら丸めてポイです。




0 件のコメント:

コメントを投稿