「生涯に渡る支援」の熱狂を振り返る

まだ小学校教員を目指していた頃の学生時代、障害児教育の講義で海外では「ゆりかごから墓場まで」の支援が、社会のシステムとして実践されていることを知りました。
そういったシステムが構築され、障害を持った人が安心して生きていける社会は、なんて素晴らしい社会なんだと、当時は思ったのでした。


卒業後、就職した自閉症児施設では、アメリカノースカロライナ州で行われていたTEACCHプログラムから学び、それを日々の支援に取り入れていました。
TEACCHプログラムは、視覚支援、構造化のイメージが強いですが、本来は自閉症の人達、また家族を生涯に渡って支援していくための州公式のプログラムです。
10年前くらいで終了してしまいましたが、すべての支援サービスを無償で受けることができました。


学生時代から「生涯に渡る支援」という言葉をたくさん聞いてきましたし、日本でも、そのような仕組みができることが理想だと思っていました。
実際、今でも、その「生涯に渡る支援」を地域で作ろうとしている人たちがいます。
しかし、それは実現するのでしょうか?
そもそも必要なのでしょうか?
本当に、障害を持った本人にとって、幸せなことなのでしょうか?
いつしか、理想だと思っていた「生涯に渡る支援」に対し、私はネガティブな感情を持つようになったのです。


平成の世、有名支援者も、メジャーなドクターも、「この子達に必要なのは、生涯に渡る支援だ」と言い、特定の支援方法を広め、家族や教員、支援者に支援し続けることの重要性を説いていました。
ですから、一つ上の世代の親御さん達、当時、30代、40代でバリバリやっていた教員、支援者というのは、とにかく「生涯に渡って、この子達を支援していくんだ!」「小さいときから慣れ親しんだ支援を大人になっても使うんだ!」という想いで突き進んでいたように感じます。
ギョーカイを先導する人も、現場の教員、支援者も、各家庭の親御さん達も、みんながみんな、「支援、支援、支援」と口々に叫んでいました。


ある親御さんが言っていました。
「学校に通っていたときは、卒業後も、私達がサポートします、大人になっても支援し続けます、と言っていたのに、当時の先生たちから、誰一人、連絡がない」と。
結局、卒業後は、親が見ることになっている、とも言っていました。
そうです、「生涯に渡る支援」なんて言っていたけれども、そういっていた支援者達が、その子の生涯すべて支援し続ける、という意味では使っていないし、そもそも自分がやろうとは考えていない。


結局、理想論を述べていただけであって、実際、卒業後に連絡がくると、「えっ」みたいなリアクションをするんです。
支援者の言っていた「生涯に渡る支援」は、「この子は自立は無理だから、生涯支援を受けるよな」という本音を、きれいな言葉で取り繕っていただけ。
「生涯に渡る支援」なんて、私も勘違いしていましたが、ポジティブな言葉ではなく、ある意味、その子の限界を決めちゃっている、とても失礼な言葉なんです。


支援者は「生涯に渡る支援」と理想のごとく口にする。
でも、実際に、たった一人であったとしても、その子の生涯全部を支援した人なんていない。
自分の担当が終わったあと、誰が支援するなんか、知らない。
本当に、この子が生涯支援を必要とする人なのか、わからない。
以前、発達障害の人達の理想の形が、「家事のできるひきこもり」と言っていたドクターがいましたが、そのドクターは、実際に、ひきこもりになった人を、生涯食べさせてあげるわけではありません。


自分の担当が終わったら、関係が切れちゃう支援者がほとんどじゃないですか。
他人様の人生、生活、選択にあれこれ助言や指示を出すのに、誰もその結果まで受け持ってくれないじゃないですか。
そんなもんです、支援者は。
だって他人だもん、お仕事なんだもん、うちの家庭の出来事じゃないんだもん。


今、振り返ると、「生涯に渡る支援」の熱狂は、親御さんから始まったように感じます。
「ああ、この子をどうしよう。大人になったら。私が死んだら…」
そういった深い苦悩に対し、支援者の言う「生涯に渡る支援」は、救いの言葉になったんだと思います。
「生涯に渡る支援があれば、安心だ」
そのように思った親御さんが多かったと感じます。
だからこそ、盲目的に「生涯に渡る支援」を求め、その言葉を発する支援者に傾倒していった。
支援者は、親御さんを安心させようと言った言葉であったが、親御さんは信じたのです。
発していた支援者は、誰も、その子の生涯すべてを支援しようとは思っていないのに。


昨日のブログは、「情報を捨てる」という内容でしたが、支援者も同様に、ちゃんと時が来たら捨てることが大事です。
支援者は、どう頑張っても、その子の人生の一部にしか関われないのです。
必ず別れが来るし、支援者と別れるというのは、その子の自立にとって、大事な一歩です。
もし、支援者を捨てられない親御さんがいるとすれば、それは子どもの自立のためではなく、親御さん自身の安心のためでしょう。
誰かに寄りかかっていたい気持ちはわかりますが、寄りかかり続けていたら、いつしか自分の足で立てなくなるもの。
親が子育てに関して自立できていないのに、子どもが自立できるとは思えません。
「生涯に渡る支援」なんていう言葉に寄りかかるのは止めた方が良いのです。


支援者なんて、捨てられてナンボの商売です。
支援の必要がなくなったのなら、発達&成長が見られた証拠ですし、自立へと一歩近づいたので喜ばしいこと。
もし、支援の効果、成果が得られないのなら、すぐに別の支援者、支援に向かった方が、子どもさんのためになるので、スパッと捨てるのは、これまた良いことなんです。


支援者に依存したくなるのは、手放したくないのは、子どもに支援が必要なのだからではなくて、私自身が寂しいから、心細いから。
その感情を支援者に向けてはいけません。
彼らは仕事で携わっているだけの他人です。
本来、そういった感情は、家族や仲間の中で解き放たれていくもの。
ですから、子の課題ではなく、親御さんの課題ですので、ご自身の心身を整え、愛着の土台、人間関係を見直す時期なのです。


自分の課題と向き合うのは、辛いことでもあります。
でも、子育てを通じて、気づかされた部分でもあり、それをクリアすることで、ご自身の人生をも豊かにすることができるのです。
だから、「生涯に渡る支援」を行うのは、社会でも、支援者でもなく、自分自身。
子どもさんにとっても、最大の支援者、生涯に渡る支援者が、自分自身になるような育ちを後押しすることがもっとも大事なんだと、私は思います。
自分自身が、自分の支援者なら、生涯に渡って発達を、成長を、生活をサポートし続けられますので。
定年も、異動も、退職もありませんね。

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