「どうやって教えよう」から「どんな準備をしたらよいかな」

施設で働いていたときも、学校で働いていたときも、私は「教えよう」としていたと思います。
できないことがあれば、補助具を作ったり、教え方を工夫したりして…。
わからないことがあれば、言葉を簡潔にしたり、視覚的な方法で伝えたりして…。
「学習に集中できるように」と刺激の少ない環境にしたり、スモールステップで教えたり、個別指導で徹底的に教えたりもしました。


こういった教える側の工夫、配慮によって、子ども達はできないことができるように、わからないことがわかるようになりました。
しかし、それは“その場限り”。
学んだ場所、学んだ人から一歩離れれば、できなくなり、わからなくなる。


ですから結局のところ、「家に帰ったらできない」→「学校だから、施設だからできるのね」と親御さんに受け取られ、連携がうまくいかなかったり、養育の意欲の低下を招いたりする。
私達、支援する側、教える側も、外に出れば、できなくなるので、「やっぱり障害が重いから」「それ(般化の難しさ)が自閉症の特性だから」と勝手に諦め、社会の中での実践から子ども達を遠ざけてしまう。


今の事業を起ち上げてからも、できないもの、わからないものは、教え方の工夫によって身についていくと考えていました。
でも、その考え方を改めるきっかけがあったのです。
普通級在籍の小学生の子。
この子は、授業についていけず、また言葉や対人面でも課題があったため、担任、管理職、コーディネーターから再三、「支援級へ」と伝えられていました。
だけれども、親御さんが頑として首を縦に振りませんでした。
今はわかっていないけれども、この子には理解する力がある、と親御さんが感じていたから。
そこで、私との関わりが生まれました。


親御さんからの依頼内容は、「学校の授業についていけるように勉強を教えてほしい」というものでした。
ですから、私はこの子にわかるような教え方、工夫をして、勉強の後押しをしようとしました。
一対一の学習で、この子のペースに合わせて進めていましたので、私との学習のときには理解ができていました。
でも、学校に行けば、わからないし、テストでも点数がとれずにいました。


最初は、「一斉授業だから」「刺激が多いから」などと、私も捉えていましたが、ふと、それまでの「その場限り」のことを思いだし、その姿と重なりました。
もしかしたら、私の考え方、援助の方向性が間違っているのではないか、と思うようになり、一斉授業でも勉強ができる、先生の言っていることが理解できるように援助することの方が必要だと考えるようになりました。
そこから援助の方向性を変え、鉛筆がちゃんと持てることや足を床にきちんとつけて座れること、教科学習の始まりである概念、数の勉強、遊びを徹底的に行いました。
すると、メキメキと力をつけていき、いつしかテストで100点をとるくらいまで成長されたのでした。
そんな子から久しぶりに連絡があり、今は受験生として頑張っています、と教えてもらいました。


この子との出会いは、私にとって大きかったと思います。
どうしても、支援者は、先生は、大人は、子どもに教えようとします。
特に、発達に遅れがある子に対しては、必要以上に教えようとする。
でも、それじゃあ、あまり意味がないんですね。
結局のところ、神経発達にヌケや遅れがある子は、「知識や技能が身につかない」のではなく、知識や技能を身に付けるための「準備が整っていない」ということ。


教え方云々ではなくて、たとえば、教科学習だったら、ちゃんと学習できるだけの手が、目が、足が、姿勢が、軸ができているか。
一斉指示を聞き取れるだけの聴覚が育っているか、その手前のバランス感覚、重力との付き合い方ができているか。
脳みそにちゃんと新しい学習ができるだけの余裕があるか、つまり、快食快眠快便が整っているか、など。
発達のヌケ、遅れは、2歳以前、言葉獲得以前の発達段階にあることが多いので、やっぱりそこを育てなければ、根本的な解決には至らない、ということです。


ある意味、それは当然なことかもしれません。
学習の準備ができていない子、感覚、動き、身体に未発達な部分がある子に、いくら工夫して教えても、徹底的に教えても、身体の底からの理解にはつながるわけがないのです。
ですから、結局、熱心な大人に付き合い、その場“だけ”できるように、パターンとして身に付けてしまう。
私も今までに、多くの子ども達を付き合わせてしまったな、と反省しています。
だから彼らは、一歩外に出るとできなくなった。
それは、本質的な理解ではなく、表面的な理解しかできない状態で、教え込まれたから。


教科学習だけではなく、身の回りのことやお手伝い、コミュニケーションや対人スキルなど、いろんな面で、「できない」「わからない」状態の子ども達がいると思います。
そんなときには、「できない」「わからない」のではなく、「準備が整っていない」という視点で捉えると、育むアイディア、必要な援助が見えてくるかもしれません。
「トイレでうんちができない」ではなく、「トイレでうんちができるためには、あと、どんな準備が必要だろうか」と考えてみる。
もしかしたら、内臓の感覚の育ちかもしれない。
もしかしたら、水分摂取と排出かもしれない。
もしかしたら、体温調節や姿勢かもしれない。


「ハイハイを飛ばした。だから、ハイハイをやらせよう。でも、ハイハイをやりたがらない」
だったら、その子がラクにハイハイができる準備には、「何があるかな?」と考えてみる。
ちゃんと指が分化している?
手首が育っている?
足の親指はどう?
重力とのお付き合いができてる?
反射が残ってない?
ハイハイは、動物としての進化の過程ですので、ハイハイが楽しめる身体に育てば、自ら進んで育て直しを行うものです。
こうやって、「どうやって教えよう」から、「どんな準備をしたらよいかな」と考え方を転換してみる。


私の想い、考えの中には、「子どもは自ら育つもの、学ぶもの」というのがあります。
本来、子どもは新しいことを学ぶのは、とても楽しいことだと感じるし、身体を動かして思いっきり遊びたいと欲している。
だから、勉強が楽しくない、新しいことを身に付けようとしない、身体全身で思いっきり遊ぼうとしない、というのは、その想いまで至らない原因がある、と考えます。
未発達やヌケ、遅れがあると、やっぱり楽しめないし、心の底から、身体の内側から喜び、意欲が生まれない。
なので、今日も私は、「どんな準備をしたら、ラクに学べるか、より楽しく遊べるか」と考えています。

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