それは藁か、希望か

発達障害の治療、教育、支援において、万人に効くものなどはありません。
たとえ、エビデンスがあるとされる介入方法だって、その原文、論文を読めば、「対象の6割に効果があった」ですとか、「介入前後で、20%の改善が見られた」という程度のもの。
どの論文を読んでも、「100%効果あり」と言われていないのです。
それは、多くの遺伝子が関わり、無数の環境要因が影響し、発達期に生じる神経発達障害なのですから、当然だといえます。


「鬼の首を取ったように」、いえ、ナントカの一つ覚えのごとく、エビデンスがどうのこうのという人達がいます(とにかく「エビデンス」といえば、それで方が付くと安易に思っている??)。
しかし、エビデンスにこだわるわりには、状態に変化が起きない。
それは「治らない障害だから!?」
だったら、最初からエビデンスがあるかどうかなんて関係ないのでは、と思います。


エビデンスのある介入方法で大きな改善が見られないのなら、効果があった対照群に、あなたの目の前の子が入っていないからか、その介入方法の効果の限界がそこにあるということ。
いずれにしろ、そこにこだわり続ける意味がわかりません。
だって、子ども時代の一年、一か月、一日は、その子の人生全体で見れば、とても貴重な神経発達が盛んな時期。
期待するほどの効果がないのなら、そもそも効果を感じないのなら、別の介入方法を探す一歩を踏みだす必要があります。
「どうしようかな」「どうするかな」と思っている間も、子どもの時間は平等に過ぎていきます。
成人期の子の親御さんとお話しすると、皆さん、「願いが叶うとすれば、この子の子ども時代に戻って、未発達、ヌケを育て直したい」とおっしゃるのですから。


神経発達の多様性を考えると、一つの介入方法、同じ介入方法では、必ず限界がきます。
特に神経発達が盛んな時期を過ごす幼少期、子ども時代は、常に刺激の変化が求められます。
お子さんによって異なりますが、一週間単位、二週間単位、1ヶ月単位、季節単位で「振り返りを行いましょう」と、私は伝えています。
それくらい変化が大きいのが、子どもさんの発達。
なので、何年も同じ介入方法を続けている場合は、発達援助というよりも、パターン学習?日課?ルーティンワーク?かなと思います。


発達障害が生じた理由、要因が、一人ひとり異なりますし、そもそも神経発達はその子、固有のものです。
ですから、介入方法はできるだけ多い方が良いのです。
とりわけ、「効果があった」「改善した」というようなポジティブなものは。
ネガティブなもの、変化がないものは、ある意味、他の方で検証済みなので、敢えて手を出す必要はありません。
再三言うようですが、子ども時代の時間はとても貴重ですから。


ポジティブな結果が得られた介入方法の中から、その時々で、選択し、我が子に合わせてカスタマイズしていくのがベストだといえます。
そう考えると、「良くなったよ」「改善したよ」「治ったよ」「自立できたよ」というエピソードは、一つ一つがとても貴重な情報であり、そういった声は一つでも多い方が良いのがわかります。
我が子の子育て、目の前の人への介入方法を作り上げていく際、アイディア、材料が多い方が、よりその子に合ったものを作れるからです。


それなのに、そういったポジティブな声を上げると、「藁にもすがる想いの親御さんに…」というようなことを言う人がいます。
我が子に100%合うことはないと思いますが、考えるヒントにはなるはずです。
決してネガティブな影響は及ぼさない。
だって、「子が育つ」という人類にとって望ましく、ポジティブな情報だから。
限られた子育ての時間を過ごしている親御さんにとっては、藁などではなく、貴重な子育てのアイディアです。
なので、そういったことを言う支援者がいれば、「私が信じるもの、専門とするもの以外は、藁であってほしい」という願望を言っているだけ。
藁人形を木に打ち付ける人を連想すれば、聴く耳を持たず、聴く時間の無駄が省けます。


しかし、親御さんの中にも、「藁にも縋る」と表現する人がいます。
ポジティブな話、他の親御さんの子育てのアイディアが「藁」に見えてしまうのは、それだけ専門家や支援、周囲の人間に希望を打ち崩されてきたからでしょう。


療育を受けたのに、専門家を頼ったのに、地域で評判の施設、支援者に支援を受けているのに、効果や変化を感じない…。
私は一生懸命やったのに、良いと言われているところはすべて行ったのに、変わらない…。
それだけ発達障害は難しい障害なんだ、変わらない障害なんだ…。
そう思うことでしか、そうやって折り合いを付けることでしか、今の自分を保つことはできない…。
だから、「良くなった」「改善した」「治った」「自立した」なんてのは、“藁”なんだ…。


幸せを感じられなかったり、欠乏や絶望を感じていたりする人は、わずかな光が大いなる希望かのように受け取ってしまうものです。
「藁にも縋る」というような強い言葉で否定する人というのは、それだけ強く希望を感じている裏返しだともいえます。
しかし、私もそうですし、発達のヌケを育て直し、治ること、自立することを目指して子育てをされている親御さん、支援者達というのは、良くなった話を聞いても、大袈裟な反応、評価はしないものです。
何故なら、診断基準から外れた人、一生涯支援と告げられた人が普通に高校、大学に行っているし、一般人として働いている姿を見ているから。
そういった人たちにとって、良くなった話は、一つの希望であり、一つのアイディア。


良くなる人、改善する人、治る人、自立する人の周りには、同じような人達が集まるものです。
それは、そういった一人ひとりの歩み、生活の中に、ヒントがあるから。
反対に、変化がない人、ずっと生きづらいままの人の周りには、そういった人達が集まる。
ですから、本人にしろ、親御さんにしろ、そこから抜け出す行動を起こさない限り、未来も同じことが続いていく。


「良くなった」という話を聞いて、「どんな方法だろう、子育てだろう」と思うか、「どうせ、藁に違いない」とハナから聞こうとしないか、たったこれだけの違いが、未来を大きく左右するのです。
子どもの場合は、親の意向が優先されるので、ある意味、運次第。
成人の方達からの相談も受けると、自分の意思が尊重される、意思通りにいける年齢になってからの取りかえしには、相当な努力と時間、強い意思が必要なのを感じます。


しかし、そうとはいえ、「どうせ、藁に違いない」と思う人が、どうやった子育て、介入をするかは、他人様のおうちの話です。
「知り合いの子のおうちもやれば」「同級生の子も、身体アプローチやればいいのに」などということも聞きますが、私は「それはどうしようもないことです」と言います。
本当にどうしようもないことですし、ぶっちゃけ他人のおうちを気にしているだけの余分な時間はないと思うことの方が多いですから。


じゃあ、私達にはなにもできることがないのか。
いいえ、一つだけあって、それは我が子を、目の前の子をより良く育てること。
つまり、それぞれの「n=1」を輝かせるのです。
「n=1」が輝けば、その光が誰かに届き、希望になるかもしれません。
全部が全部とは言えなくても、部分的に、何か一つでも、他の子の子育てのヒントになるかもしれません。
ですから、堂々と「n=1」を発信していけばいいのです。


「n=1」で、何が悪い。
我が子がより良く育ったのなら、生きづらさがなくなっていったのなら、「一生涯支援」と告げられた子が自立して生きていったら、親にとってそれ以上の喜びはないでしょう。
支援者だって同じこと。
対人職の究極の目的は、目の前の人が幸せになる、そのための後押しをすることですから。
合うものを待つのではなく、合うものを探していく、掴みに行く。
合うものが見つからないのなら、合うまで動き続ける。


一人として同じ人がいないのは、発達障害を持つ子も一緒。
その発達の仕方だって、バラエティーに富んでいるのですから。
100%の人に効果があるエビデンスのある介入方法は存在しない。
だったら、「n=〇」の〇の数が増えていくよりも、素晴らしい「n=1」が増えていく方が良い。
そんな風に私は考え、今日も「n=1」が少しでも輝けるような後押しを行っています。

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