【No.1041】『発達』と『学習』は別もの
欧米ではDVが増え、日本では「コロナ離婚」なる言葉が流行っているようですね。
コロナの影響で、顔を見合わせる時間がグッと増えた家族。
その家族の時間をポジティブに楽しめる家庭もあれば、それがストレスとなる家庭もある。
何故、家族同士でもストレスになるかといえば、相手に「こうしてほしい」「ああしてほしい」などの理想を勝手に抱き、その通りにならないギャップにストレスを感じているのだと思います。
そもそも、家族であったとしても、自分とは別人格なので、最初から何かを期待する方が間違っているといえますが。
もし、自分の期待通りに他者が動くとしたら、それは洗脳に違いありません。
いろんな親御さんと関わっていると、みなさん、我が子に対して大きな期待をよせているのがわかります。
当然、愛する我が子ですから、親として期待するのは当たり前。
でも、その親の期待は必ず裏切られるものです。
親の期待や想像を裏切るような行動をし、成長を見せるから、子は親を超え、自立することができる。
別の言い方をすれば、親のイメージの中で終始している子は、親元を離れての自立は難しいでしょう。
それは、不登校やひきこもりの人達と関わり感じたこと。
そして支援者にとって支援しやすい子がいつまでも自立できず、一方で支援を受けていたとしても、ある時期を境に「No」と言えた子から自立していく姿を見てきて気づいたこと。
期待するのは、自由です。
でも、その子本人とは切り離して考えるべきだと思います。
「ああなってほしい」は、周囲が勝手に思っているだけで、本人には関係ありません。
「自分の期待」と「本人の主体性」の境を曖昧にすると、我が子との生活がストレスになり、子育てが洗脳になります。
「なんで、これができないんだ」
「どうして、課題がクリアされ、育っていかないんだ」
というのは、本人にそのための準備が整っていないだけ。
特に、身体や感覚、ヒトとしての土台となる胎児期から2歳前後の発達にヌケや遅れがあると、何かを教えよう、身に付けさせよう、問題を無くそうとしても、無理な話です。
それこそ、強制し、矯正し、洗脳するしかありません。
いろんな相談を受けていますと、この辺りの認識の違い、曖昧な捉え方が、親御さんの悩みの根っこに繋がっていると感じます。
中でも、これは支援者、教育者にも多いのですが、「発達」と「学習」の違いです。
発達障害の子に、何かを教えようとする。
たとえば、服の着脱衣としましょう。
着脱衣は、人間しかしないので、学習の側面が大きいといえます。
その方法を身振り手振りで教えたり、何度も練習したりすると、できるようになる子がいます。
そういった子は、着脱衣ができるだけの準備ができていた子だといえます。
その準備とは、腕を通すときの動作であったり、ボタンをつまみ止める指の動きだったり、自分の身体の範囲がわかるという感覚の育ちだったりします。
つまり、教えたからできるようになったわけではなく、土台である発達という準備が整っていた上に、本人が学習したからできるようになったのです。
私は施設職員から教員になったわけですが、そのとき、強い違和感を持ったのがこれです。
どう考えても、発達という土台ができていない子に、なんとか学習させようとしている姿。
それが教育だと言われればそれまでなのですが、鉛筆が正しく持てない子、座位を保つのが難しい子に対して、教科を教えようとする。
それで、当然、発達的に準備が整っていないのですから、それは身体的にも、感覚的にも、脳の発達的にも、本人も理解できないし、身につかないのです。
その姿を見て、教え方がどうだ、教材がどうだ、教室の環境がどうだ、挙句の果てに「家庭ガー」「障害特性ガー」が始まる始末。
いやいや、発達検査でも、その年齢がでているのに、おかまいなし。
2歳数か月とか、3歳数か月とかいう発達年齢の子に、国語の漢字は難し過ぎます。
分かりやすく単純に言えば、発達とはヒトの部分、動物の部分です。
学習とは、人間の部分。
発達障害と言われる子ども達は、この動物の部分、ヒトから人間へと進化する過程の中に、課題がある子達だと考えられます。
親御さんが育むこと、そして発達援助を行っている我々がアプローチするのは、この動物としての育ち、胎児期から言語獲得までの発達でしょう。
この辺りがきちんと理解できていないと、発達という土台の準備ができていない子に、何度もチャレンジさせたり、練習&指導したりしてしまう危険性があります。
当然、いくら練習しても、指導しても、時間をかけても、できるようにならず、その自分のかけた労力に比例して「こうなってほしい」が大きくなり、結果的に落胆からのストレス、または諦め、「どうせ、障害だし」となる。
その子の発達を視ず、学習させようとするのは、強制であり、洗脳です。
本来、特別支援教育とは、その子の発達をベースに、教育が展開されていくはずなのに、正直、現状は、「普通級のレベルを下げたものを繰り返し、覚えるまで続ける」みたいな印象を受けます。
本人の発達がリードし、学習内容が設定されていくべきなのに、教員が設定した学習内容にその子を引っ張り上げるようなイメージです。
そりゃあ、いつまで経っても、学習が進んでいかないわけです。
親としての期待が外れれば外れるほど、その子は主体的に自分の発達を遂げているのだと思います。
どの子も、親の思い描いた通りに成長したら、おかしいですよね。
親のイメージの範囲でしか成長できていないとしたら、むしろ、それは危険なことなのです。
私達大人だって、みんな、親の期待を大きく裏切り、大人になり、社会人になり、自分の家庭を築いているはずです。
期待はあくまで自分の胸の内に。
そして、我が子には、我が子らしく伸び伸びと発達、成長してもらう。
そのための土台作りが子育てであり、私達が行おうとしている発達援助。
それは“発達”なのに、“学習”のように捉えてしまっているから、「もう身につくはずなのに、まだ身につかない!」「これだけやったから、できるようになるはずなのに!」と積み上がっていく理想を重ね、そのギャップにストレスを感じてしまう。
でも、それは“発達”だから、親や教師、支援者の思う通りには進まないし、なってはいかない。
発達とは誰のものでもなく、本人のモノだから、本人の内側から湧き出てくるものだから。
この辺りが頭の中で、感覚的に整理できていると、いつもよりも長くなった家族の時間を、子育ての時間を愉しむことだできるはずです。
“発達”と“学習”は別もの。
コロナの影響で、顔を見合わせる時間がグッと増えた家族。
その家族の時間をポジティブに楽しめる家庭もあれば、それがストレスとなる家庭もある。
何故、家族同士でもストレスになるかといえば、相手に「こうしてほしい」「ああしてほしい」などの理想を勝手に抱き、その通りにならないギャップにストレスを感じているのだと思います。
そもそも、家族であったとしても、自分とは別人格なので、最初から何かを期待する方が間違っているといえますが。
もし、自分の期待通りに他者が動くとしたら、それは洗脳に違いありません。
いろんな親御さんと関わっていると、みなさん、我が子に対して大きな期待をよせているのがわかります。
当然、愛する我が子ですから、親として期待するのは当たり前。
でも、その親の期待は必ず裏切られるものです。
親の期待や想像を裏切るような行動をし、成長を見せるから、子は親を超え、自立することができる。
別の言い方をすれば、親のイメージの中で終始している子は、親元を離れての自立は難しいでしょう。
それは、不登校やひきこもりの人達と関わり感じたこと。
そして支援者にとって支援しやすい子がいつまでも自立できず、一方で支援を受けていたとしても、ある時期を境に「No」と言えた子から自立していく姿を見てきて気づいたこと。
期待するのは、自由です。
でも、その子本人とは切り離して考えるべきだと思います。
「ああなってほしい」は、周囲が勝手に思っているだけで、本人には関係ありません。
「自分の期待」と「本人の主体性」の境を曖昧にすると、我が子との生活がストレスになり、子育てが洗脳になります。
「なんで、これができないんだ」
「どうして、課題がクリアされ、育っていかないんだ」
というのは、本人にそのための準備が整っていないだけ。
特に、身体や感覚、ヒトとしての土台となる胎児期から2歳前後の発達にヌケや遅れがあると、何かを教えよう、身に付けさせよう、問題を無くそうとしても、無理な話です。
それこそ、強制し、矯正し、洗脳するしかありません。
いろんな相談を受けていますと、この辺りの認識の違い、曖昧な捉え方が、親御さんの悩みの根っこに繋がっていると感じます。
中でも、これは支援者、教育者にも多いのですが、「発達」と「学習」の違いです。
発達障害の子に、何かを教えようとする。
たとえば、服の着脱衣としましょう。
着脱衣は、人間しかしないので、学習の側面が大きいといえます。
その方法を身振り手振りで教えたり、何度も練習したりすると、できるようになる子がいます。
そういった子は、着脱衣ができるだけの準備ができていた子だといえます。
その準備とは、腕を通すときの動作であったり、ボタンをつまみ止める指の動きだったり、自分の身体の範囲がわかるという感覚の育ちだったりします。
つまり、教えたからできるようになったわけではなく、土台である発達という準備が整っていた上に、本人が学習したからできるようになったのです。
私は施設職員から教員になったわけですが、そのとき、強い違和感を持ったのがこれです。
どう考えても、発達という土台ができていない子に、なんとか学習させようとしている姿。
それが教育だと言われればそれまでなのですが、鉛筆が正しく持てない子、座位を保つのが難しい子に対して、教科を教えようとする。
それで、当然、発達的に準備が整っていないのですから、それは身体的にも、感覚的にも、脳の発達的にも、本人も理解できないし、身につかないのです。
その姿を見て、教え方がどうだ、教材がどうだ、教室の環境がどうだ、挙句の果てに「家庭ガー」「障害特性ガー」が始まる始末。
いやいや、発達検査でも、その年齢がでているのに、おかまいなし。
2歳数か月とか、3歳数か月とかいう発達年齢の子に、国語の漢字は難し過ぎます。
分かりやすく単純に言えば、発達とはヒトの部分、動物の部分です。
学習とは、人間の部分。
発達障害と言われる子ども達は、この動物の部分、ヒトから人間へと進化する過程の中に、課題がある子達だと考えられます。
親御さんが育むこと、そして発達援助を行っている我々がアプローチするのは、この動物としての育ち、胎児期から言語獲得までの発達でしょう。
この辺りがきちんと理解できていないと、発達という土台の準備ができていない子に、何度もチャレンジさせたり、練習&指導したりしてしまう危険性があります。
当然、いくら練習しても、指導しても、時間をかけても、できるようにならず、その自分のかけた労力に比例して「こうなってほしい」が大きくなり、結果的に落胆からのストレス、または諦め、「どうせ、障害だし」となる。
その子の発達を視ず、学習させようとするのは、強制であり、洗脳です。
本来、特別支援教育とは、その子の発達をベースに、教育が展開されていくはずなのに、正直、現状は、「普通級のレベルを下げたものを繰り返し、覚えるまで続ける」みたいな印象を受けます。
本人の発達がリードし、学習内容が設定されていくべきなのに、教員が設定した学習内容にその子を引っ張り上げるようなイメージです。
そりゃあ、いつまで経っても、学習が進んでいかないわけです。
親としての期待が外れれば外れるほど、その子は主体的に自分の発達を遂げているのだと思います。
どの子も、親の思い描いた通りに成長したら、おかしいですよね。
親のイメージの範囲でしか成長できていないとしたら、むしろ、それは危険なことなのです。
私達大人だって、みんな、親の期待を大きく裏切り、大人になり、社会人になり、自分の家庭を築いているはずです。
期待はあくまで自分の胸の内に。
そして、我が子には、我が子らしく伸び伸びと発達、成長してもらう。
そのための土台作りが子育てであり、私達が行おうとしている発達援助。
それは“発達”なのに、“学習”のように捉えてしまっているから、「もう身につくはずなのに、まだ身につかない!」「これだけやったから、できるようになるはずなのに!」と積み上がっていく理想を重ね、そのギャップにストレスを感じてしまう。
でも、それは“発達”だから、親や教師、支援者の思う通りには進まないし、なってはいかない。
発達とは誰のものでもなく、本人のモノだから、本人の内側から湧き出てくるものだから。
この辺りが頭の中で、感覚的に整理できていると、いつもよりも長くなった家族の時間を、子育ての時間を愉しむことだできるはずです。
“発達”と“学習”は別もの。
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