【No.1210】「重度」という言葉

「重度」という言葉は、本人ではなく、周囲の人のための言葉です。
「重度だから」と使えば、諦める決心ができたり、「自分のせいじゃない」とその瞬間は、自分自身を傷つけなくて済みます。
「重度だったのに」と使えば、今に対する感謝の気持ちを、本人の成長を感じる喜びを、一方で自分自身をアゲルために、想定した誰かをサゲルために発せられることもあるでしょう。
ですから、「重度」という言葉の使い方は難しいと私は感じています。


ところでいろいろな人が使っている「重度」とは、どんな状態を指すのでしょうか。
知的障害が「重度」?
症状が「重度」?
問題行動が多いのが「重度」?
ある程度、年齢が上がっても症状が変わらない人が「重度」?
生活面で介護を受けている人が「重度」?
たぶん、その人その人で重度が意味していることは違うでしょうし、その重度は上記で言えば知能検査の値しか客観的なものはないので、かなり主観的なものだといえます。
しかも、その主観は発している人が実際に見聞きしてきた発達障害の人の範囲での話になりますので、同じ「重度」でも、ある人には軽度に見え、ある人にはかなり重度に見えることもあると思います。


親御さんがいう「重度」と、医師がいう「重度」と、学校の先生がいう「重度」と、施設職員がいう「重度」は、まったくもって異なるのは無理もないことです。
当然、子どもを中心に見ている人と、大人を中心に見ている人、学習面を中心に、生活面を中心に見ている人でも全然違うはずです。
そういう私も偏りがあるわけで、てらっこ塾を始めてから一度も重度と思うような方とは出会っていないのです。
キャリアの初めが、当然、家で過ごすことができず、それでいてその地域にある入所施設に入っても、そこで生活ができないくらいの人達が全国から集まってくる施設での生活支援でしたから。


知能検査は測定不能、こだわりなどの症状はコントロール不能レベルで、行動障害も強度と判定される入所者たち。
精神科薬の量は、それだけでおなか一杯になるのではないか、というくらいで全国各地からやってきていました。
確かに、このような方達は誰がどう見ても「重度」の人達でしょう。
しかし、この「重度」の人達も、多くは環境を整え、捻じれた糸をほどいていくと、徐々に落ち着き、安定した生活を歩めるようになっていきました。
つまり、こういった人達も、本当に「重度」なのか、一時的に「重度」に見えるだけ、特に周囲からは、ということが往々にしてあるのです。


当時、研修先の教授に尋ねたら、「私の国では95%の自閉症者が地域で暮らしている」と言っていました。
ただ「残りの5%の人は不可能だから、入所させる」と。
米国人らしい合理的な考え、政策だと感じましたが、その背景には生物学的にいっても、支援や薬ではどうしようもない人もいる、という話だと私は解釈しました。
私が働いていた入所施設でも、半数以上の人が入所後、安定的な生活を取り戻せていたので、誤学習で、また周囲の解釈の間違いで「重度」っぽくなってしまったためのだと思います。
「重度」と感じる人は、自分自身で制御不能の状態になっており、自ら消滅の方へ向かう姿に、それが私の唯一の安寧という雰囲気がありました。


このように本人の「重度」と、周囲の「重度」は違います。
そして忘れてはならないのは、発達障害は障害ではないということ。
百歩譲って障害というカテゴリーに入ったとしても、障害の中ではかなり軽度なのが発達障害ということです。
一日一日、生きられるか、この瞬間、息を吸って吐くだけでも難しい障害の人もいます。
自ら移動することも、意思を表出することも、なにかを知覚することも、難しい障害の人もいます。
こういった子を持つ親御さん達、親の会とも交流があった時期がありますが、「どうして発達障害の子しか利用できない児童デイばかりが増えるんだ」「軽々しく”うちの子は重度です”と言ってほしくない」というお話を伺い、そりゃそうだなと私も思っていました。


本人ではなく、誰からか言われた「重度」、自分自身がそう解釈している「重度」という言葉によって、その子の将来を諦めることにつながったり、育てるよりも支援という名の介護に向かってしまったりするのでしたら、それはもったいないことだと思います。
とくに幼児期は、一つの発達のヌケがその子にとって大きな混乱を招いたり、発達全般に影響を与えることはよくあり、家を中心とした環境、どのような刺激を受けるかによって、状態はガランと変わるものです。
「我が子が重度」と絶望されていた家庭も、テレビ視聴を止めて数か月経つと、自然と目が合うようになり、言葉が出てきた、なんてこともしょっちゅうです。


たとえば、言葉があって、普通に生活していたのに、小学校になってから急に言葉を失い、排泄も自立してできなくなった、というのでしたら、重度になったと落ち込むのは自然ですが、言葉を習得していく前の過程で、なかなか言葉が出ないのは重度ではなく、育っていないだけの場合が多いといえます。
また感覚系の未発達は、周囲の状況を認識する際、刺激を受け取る際、いわゆる情報処理のプロセスで頭や全身で混乱を招きますので、終始泣きじゃくる、落ち着かない、ということがあります。
我が子が泣き続ける姿を見て、心を痛めるのは自然な感情ですが、だからといって、「=重度」にはならないと思います。


が一方で難しいのが、私に対し「重度」と言ってほしい、という親御さんの気持ちが伝わってくるときです。
親も子も、パニック状態なとき、もう親として心がこれ以上落ちるところまでないくらいなとき、私がいつもの調子で忖度せず(笑)、「いやいや、全然重度じゃないっすよ。発達が抜けているだけ」なんて言うことが、はたして明日の子育ての力につながるだろうか、と迷うことがあります。
「あれだけ大変だった子が、大久保さんの助言で、一般の幼稚園、普通級に行けたんです」と喜んでいる親御さんに、敢えて「ただ他の子と比べて発達がゆっくりだっただけ」と言う必要があるのか、と思うことがあります。
目指すべきことは、子ども達が発達のヌケを育てきるまで、親御さん達に後押しを続けてもらうことであり、その後方支援が私の役目ですから。


今年も多くのご家族、子ども達と関わりましたが、生まれてくる時代が20年ほど早ければ、ほとんどの子が診断されず、一般の幼稚園、保育園、小学校普通級に行き、小学校高学年くらいまでに自然と治っていたと思います。
つまり、そもそもが障害でもなく、必要なのはその子が足りていない発達の時間だけなのに、2000年以降、発達障害という商品化が進んでしまったため、医療、福祉、教育の食い物にされてしまったのです。
さらに、この先、コロナ禍のヌケを抱えて発達障害っぽく見える子がプラスされていく。。。


発達障害とは、「子どもが育つ環境の危機」ということだと思います。
その背景には、コロナ禍のような人災もありますし、東日本大震災のような自然災害もあります。
そして、食と空気、土の汚染もあれば、大人のために最適化された社会が子ども達の発達を阻害している場合もあるでしょう。
もちろん、家庭環境、養育力の問題もあるはずです。
本来、そういった根本的な原因に目を向けなければならないことを、「発達障害」という言葉で覆い隠しているような気がします。


社会や自然を変えることは難しく、時間がかかることです。
しかし、家庭という環境、子育て・発達援助という関わり方は、今日から自分の意思で変えることができます。
その変わろうとするエネルギーを萎めてしまうのが、「重度」という言葉であり、「発達障害」という言葉であるように思います。
一時的にその言葉で心が救われたとしても、根本が変わらない限り、問題は解決しません。
私が作成する報告書に「自閉症」「発達障害」「重度」などの言葉を使わないのは、いつかこれらの言葉が無くなってほしいと願っているから。
我が子の子育てに、発達のヌケを育て直すのに、本人が治っていくのに、そういった言葉たちは必要ありませんね。





【先行予約のお知らせ】
12月3日より出版元である花風社さんで新刊の予約の受けつけが始まりました。
花風社さんで直接お申込みいただけると、特製のミニクリアファイルがついてきます。
書店で並ぶよりも早く読むことができますので、是非、ご利用ください。
ご予約はこちらから→https://kafusha.com/products/detail/56

前著『医者が教えてくれない発達障害の治り方①親心に自信を持とう!』もどうぞよろしくお願い致します(花風社さんのHPからご購入いただけます)。全国の書店でも購入できます!


コメント

このブログの人気の投稿

【No.1376】根本から治したいなら、これくらいやる必要がある

【No.1390】20年間、この世界に身を投じてきた私の結論

【No.1407】援助・支援・余計なお世話