【No.1208】他人に期待しない、自分に期待する

昨日、学校評価を提出したところで、どんなお返事、ご回答がいただけるか楽しみにしているところです。
再三、「子ども達の命を守るため」「大切な人を守るため」という具合に、根拠のない精神論で子ども達に選択の機会、考える機会を封じ込めようとしているため、客観的なデータをお付けしました(笑)
重症化を予防するといわれているワクチン接種が、高齢者&基礎疾患のある人でほぼ完了した現在。
しかも、市内の入院患者、自宅待機者はゼロ。
当然、陽性者は何週間もゼロ。
緊急事態宣言も出ていなければ、マスク等の感染対策の命令などの法的根拠もゼロ。
ゼロゼロづくしなのに、どうしていつも学校は偉そうなのか、どうしていつも子どもたち自身に考えさせようとしないのか、はなはだ疑問です。


私が小学生の頃は、学校からあまりうるさく言われた記憶がありません。
記憶がないというか、私自身が守っていなかったのかもしれませんが、うちの子が学校から持ってくるプリントを見ると、いつも驚かされます。
百歩譲って学校内、授業中のルール、お願いなら分かりますが、いついつから自転車の乗って良い&悪い、放課後遊んで良い公園、行って良い範囲はここからここまで、公園に持っていっていい物、悪い物、友達の家では〇〇は良いけれども、〇〇はダメ…。
親である私が見てもうんざりする内容です。


結局、このようなルールの一つ一つは、学校側の責任回避のためでしかありません。
たぶん、過去に問題になったものを明文化していったのでしょう。
だから、とにかく細かい事例、特殊な事例が加わっています。
人間、保身になると、やることは一緒で、「県境またぐな」と同じように、「校区外に行くな」は、何か問題が起きたとき、どこの児童生徒かすぐにわかるように、また他校の子ども同士のトラブルは双方の学校が出ていかないといけなくなるので大変ということだと思います。
放課後は、子ども達が生きるための土台を作り、生き抜く力を地域、社会の中で育む時間です。
私なんか、友達と何駅も先の公園まで遊びに行っていましたし、夕焼け小焼けのメロディーと共に「良い子は帰りましょう」というアナウンスを聞いてからが遊びの本番という感じで、「俺たち、良い子じゃないからね」と真っ暗になるまで遊んでいたものです。


GHQが戦後、今後絶対に歯向かうことがないように、ということで手を付けたものの一つに学校教育があるといわれています。
戦時中、捕まっていた左の人達を東大のトップや教育行政の中に送りこみ、自分たちの歴史を否定する教育、そして一人ひとりが考え”ない”教育を展開していきました。
見事に私達は考えられない国民、誰からか指示を出されないと動けない国民になりました。
いくら文科省がアクティブラーニングなどと言っても、教えている先生たちが指示待ちの人ばかりではただのお題目にしかなりません。


それはこの2年間、「子ども達からマスクを外そう」「例年のような教育活動、学ぶ機会を守ろう」という声が上がってこなかったのを見れば、わかります。
個人としては、そういった考えを持ち、行動している先生がいたのを何人か存じ上げていますが、大部分は黙ったまま。
中には、これを機に、教育活動を省略しラクをしようとしているような空気感を出している先生、管理職もいたくらいです。
そもそもあんな布きれ一枚、口に付けたくらいで、感染が防げるのなら、マスク義務化の国でとっくの昔に終息しているでしょう。
こんな当たり前の科学的な思考を持ち併せず、教壇に立てるのは、学校教育が学力よりも、集団生活や模範的な行動など、精神的なもの、統一性に重きを置いている証拠だと思います。
それまた左の影響かもしれませんね。


私は他人に依存する、頼るということをしてきませんでしたので、正直、学校や支援機関、先生や支援者に対して一喜一憂する人の気持ちがわかりません。
コロナ前からですが、担任の先生がどうだとか、あそこの療育機関、通所施設はどうのこうのとか、意味不明です。
他人が自分の想い通りに動いてくれると思っている時点で、その子は伸びないし、治りませんね。
そして何よりも自分の頭で考えて生きていけるだけの本当の意味での自立から遠のいていくでしょう。
近頃、治らないギョーカイにい続けるから治らないのか、そもそも誰かに我が子の子育て、発達の主体を預けてしまうという親の姿勢だから治らないのか、わからなくなります。


うちに遊びに来る我が子の同級生を見ていると、はっきりわかれたと感じます。
2020年からマスクをつけていた子は顔の一部かのようにつけ続け、「苦しくないの?」「外しても良いよ」と言っても、「もう慣れたから大丈夫です」と言います。
子どもは良い意味でも神経発達が盛んな時期で慣れるのも、環境に適応するのも早い。
苦しいとか、煩わしいとか、感じられなくなっているのも問題ですが、やはり思考停止のほうが問題です。
去年は、「早くマスクしなくて良くならないかな」「なんでマスクしなきゃダメなんだよ」と言っていた同級生たちも、疑問を持たないくらいまできてしまいました。
この子達は学校の先生が「外しましょう」と言わない限り、もう外そうとはしないでしょう。
それは心身の健康、発達だけの影響に収まらず、思考停止&受け身という負の遺産まで引き継いでしまう結果になりました。


親御さんによってはキャパシティーの違いがありますので、なんでも自分で、家族の力だけで子育て、発達のヌケの育て直しができない人もいるでしょう。
そういった場合は、いろいろな人の力を、地域資源を利用するのが良いといえます。
しかし、他人を頼るにしても、子育ての主体であるという心構えを忘れてはならないと思います。
支援者はよく「頼るのも大事な力ですよ」などと言いますが、これは勘違いさせやすい言葉です。
そもそもが考え、自分の意思で選択し、行動するのが苦手な日本人です。
そういった訓練、姿勢が身についている方が少数派。
そんなとき、「頼る」は「依存」になります。
依存するから、他人に期待し、一喜一憂するのです。
一喜一憂していると、軸がブレブレなので、子育て・発達援助が定まらず、子どもがやり切れず、育てきれずに。
そして親という環境の揺らぎが不安定さを生み、落ち着いて本人が育めない悪循環となります。


就学したら終わり、発達のヌケ、未発達が育ったら終わり、ではありません。
そう感じたとしたら、それは親御さんからみた視点です。
子どもにとっては、就学、治るは、人生の通過地点。
特に「治った」というのは、あとから本人が振り返り、「ああ、自分は治ったんだな」と実感するものだと思います。
案外、親御さんが「治った」と思っていても、本当の意味では治っていなかったり、「まだ治っていない」と思っていても、本人の実感では治っていることもあるものです。


私も治るのは通過地点だと考えています。
本人も、家族も、意識することなく、自然と治っているのが理想です。
だから、治るということよりも、よりよく育つ、育ち続けることのほうが大事なのです。
育ち続けることを妨げる要因になるから、治すといった感じです。
私がコロナ騒動による子どもの影響に対して怒りの感情を持つのは、単に発達に影響を及ぼしただけではなく、子ども一人ひとりの人生に重い影を落とすからだと思います。
生涯を通して学び、成長し続けられない人、自らの頭で考え行動できない人は、不自由な未来が待っている。
他人ではなく、自分自身に期待できる人間に育てるのが、私達大人の役割ではないでしょうか。


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