【No.1088】特別支援によって救われた未来と、奪われた未来
件数は少ないものの、「うちの子が発達障害ではないことを確認してくれませんか」というような依頼が来ることがあります。
「発達のヌケを確認してほしい」「今後の子育てについて助言がほしい」
そのような依頼をされる親御さんと比べて、「ないことを…」という依頼をされる親御さんに障害受容がないというわけではありません。
親御さんは本能的に気がついているのです。
「うちの子は違う。だけれども…」
「だけれども」に続く言葉は、親御さんにその言葉を連想させてしまうのは、保健師さんだったり、保育士さんだったり、幼稚園・学校の先生だったりします。
今は少しでも何かあると、「発達障害では」と言う人が多いと感じます。
それも年々増えている印象を受けます。
でも、実際はその人が思う"疑い"であって、単に発達がゆっくりな子、単にその人の指導力が足りないだけということも少なくないと思います。
他人に指摘されるまで、我が子の発達の遅れ、自閉的な特性にまったく気づかない親御さんは、どのくらいいるのでしょうか。
「家では問題なく生活できている」
「今まで我が子の発達で気になったことがない」
そういった親御さんが、他人からの指摘や促しにより、病院に行く。
ドクターに、「家では問題なく生活できているのですが、園の先生から『一度、発達専門の病院で診てもらってください』と言われまして…」と告げると、園でのトラブルについて根掘り葉掘り訊かれる。
そして、発達障害という診断名が付き、療育・支援のレールの上にポンと置かれる。
平成の時代の教科書には、「自閉症の子は、場面が変わると混乱する。普段できていたことができなくなることがある」と記されていたので。
私はいつも不思議に思うのです。
家で問題なく生活できている子、今までの発達の中で気になるところがなかった子は、本当に発達障害といえるだろうか、と。
こういった場合、まず疑うのは発達障害ではなく、崩れている場所の環境ではないでしょうか。
ビックリするような話ですが、小学校1・2年生は普通級で問題なく勉強できていた子が、3年生になり、集中力や学力の低下、離席等の行動が見られるようになる。
すると、担任から「発達障害ではないですか」「特別支援担当の先生に一度」「病院で診てもらっては」などと言われる。
でも、その前に他の要因も確認する必要があると思います。
担任の指導力は?
級友との関係は?
心理的な変化はないだろうか?
前の担任に様子を訊いてみよう。
そういった確認をしたうえで、初めて「発達障害では?」という話になる。
でも、その場合だって、受診するかどうかは家族の話です。
何よりも本人に利するところがなければ、他人がとやかくいう話ではありません。
しかし「受診させなければ、そのまま支援級へということになります」などのプレッシャーをかけてくる学校もあり、気が付いたら診断名が付き、特別支援の世界に入っているご家族もいるのです。
こういった親御さんは、「受診すれば、うちの子には『発達障害はありませんよ』『自閉症ではありませんよ』と証明してくれると思っていました…」と言われます。
病院は診断名が付くことで、その診断名に従って治療方針を決め、治療を始めていく場所ですので、多くの場合、診断名が付きます。
ですから、受診すれば、なんらかの診断名が付く可能性が高いといえます。
そうなると、発達障害を疑った他人にお墨付きが与えられることになり、学校や園などでは、「そういった子」ということで体制が組まれていきます。
本来、子どもと関わる仕事をしている者は、その子がよりよく育つことを一番に考えるはずではないでしょうか。
学校の先生なら、診断のあるなしに関わらず、「この子がどうやって伸びていくか」を考え、試行錯誤しながら指導していくのが本来の姿だと言えます。
でも、その自分の指導力不足を棚に上げ、すぐに課題の理由を障害という言葉に置き換えてしまう。
幼稚園でも、保育園でも、なんだかすぐに特別支援の世界に丸投げしようとする姿が見えます。
「お子さんがかわいそうなんで…」と言いつつ、本当は自分がこういった子を担当して"かわいそうだから"と言っているようにも聞こえます。
「発達障害がないことを」という依頼をされる親御さんは、自分の感覚と他人からの指摘のギャップに苦しまれます。
自分の感覚を信じたいのに、その感覚を、そういった感覚を持つ親という存在までを否定され続ける。
それによって心身を病む親御さんもいます。
特別支援は、その子がよりよく育つために、より良い未来のためにある存在なのに、子どもの未来を奪い、学びの機会を奪い、挙句の果てに家族にまでネガティブな影響を与える。
特別支援によって救われた未来と、奪われた未来。
どちらが多いと言えば、私は後者のほうがまだまだ多いと感じます。
ちなみに、「発達障害がないことを」という依頼に対しては、発達障害がないことを確認しようとはしません。
反対に、全力で発達障害がある部分、自閉症やADHDなどの特性が現れている部分を見つけようとします。
そうやって全力でヌケや遅れ、特性の部分を見つけ出そうとし、見つけた部分が同年齢の子の発達と比べて大きく違うのは、定型発達のバリエーションの範囲に入るのかを確認していきます。
そうすると、本当に発達障害と呼ばれる状態なのかが見えてくるだけではなく、より良い子育ての方法が見えてくることがあります。
結局、必要なのは診断基準に当てはまるかどうかではなく、その子がよりよく育つアイディアです。
私は、子どもに関わる者が「目の前の子がよりよく育つには?」という問いに対する答えを自分自身で見つけようとしなくなったことが、こんにちの特別支援の混乱を招いていると考えています。
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