【No.1090】理由を問わない診断

先日、伺ったご家庭では、親御さんが「うちの子、目が合わないんです」と心配されていました。
実際に確認しますと、確かに目が合わない。
まあ、目が合わないというよりも、私の目を見ているようなんだけど、見ていない感じってところでしょうか。


他の親御さんと同じように、スマホの検索画面に「目が合わない 幼児」と打ち込んだそうで、するとすぐに「自閉症」「発達障害」という結果が表れます。
今はご丁寧に、広告料を払っている療育機関なども一緒に表示されます。
すると、親御さんはビックリするわけです。
「うちの子は自閉症かもしれない」
そうなると、次からは「自閉症の特徴」「自閉症の育て方」「自閉症の進路」「自閉症の将来」など、自閉症についての検索が始まるのです。
「ああ、これはうちの子にも当てはまるかもしれない」
「じゃあ、普通の学校は難しいかもしれない」
「早く診断を受けて、早く療育とやらを受けなきゃならない」
そうやって知らず知らずのうちに、特別支援の世界に迷い込んでしまう。


自閉症のお子さんで目が合わない子がいます。
しかし、「目が合わないから自閉症」ではありません。
目が合わない理由は、たくさんあるのです。
ハイハイを飛ばしたり、肩甲骨の動きが育っていなかったりすると、立体視が育たず、結果的に目が合いづらくなります。
ヒトも動物なので、奥行きのある自然の中で目そのものを育てていくのですが、今のように家ばかりにいると、目を育てる機会が乏しくなり、焦点が合いづらくなる場合もあります。
同じように、幼少期からメディア視聴の時間が長くなると、狭い範囲でしか目を動かさず、また二次元ばかり見ていることになるので、見る力が育ちません。
身体の軸が育っていなくて目を寄せることができなかったり、身体の大きな動きが育っていないことで、目の動きという小さな動きの育ちが滞っている場合もあります。
あとは、目の育ちと言うよりも、周囲の人に気がついていない=自己の未確立もあり、その背景には感覚系の遅れも考えられます。
このように「目が合わない」という姿には、多くの理由が考えられるのです。


さらに「目が合わない」というのが今だけのことなのか、それとも今後も長く続くことなのか、で意味が大きく異なります。
以前、1歳代のお子さんで「目が合わない」と心配されていた親御さんがいらっしゃいましたが、私との発達相談が終わったあと、少しずつ目が合うようになったというお話がありました。
幼少期のお子さんの発達は、独立しているように見える発達同士が連動しているのが特徴です。
目自体をピンポイントで育てたわけじゃないのに、ほかの部分が育つと、それに引っ張られるようにして目が育つということもあります。
つまり、幼児さんは発達途中であり、未発達があるのは当然のことですから、一時的に目が合わなくても問題はありません。
問題があるとすれば、その発達課題が何年も、何十年もクリアされずに残り続けたときです。
ある一時期、特に小さなお子さんのひと場面を切りぬいて、「それが異常だ」というのはナンセンスなのです。


でも、このナンセンス状態なのが、こんにちの診断であり、特別支援だと言えます。
自閉症のお子さんの中には、目が合わない子がいるのは確かですが、目が合わないからといって、どの子も一色単に「自閉症ですね」「発達障害ですね」「じゃあ、治りませんね」とやっちゃうのが今の特別支援の世界なのです。
「目が合わない」だけじゃなくて、「こだわりがある」とか、「言葉の発達が遅れている」とか、「クルクル回る」とか、ただある自閉症の子に見られた行動が、あたかも自閉症全体に見られるように、またそれがあると自閉症になってしまうがごとく語られています。


元気いっぱいの幼児さんが、昔でいうやんちゃな子が、幼稚園や保育園、中には保健師からの指摘により通院し、そこでADHDという診断がつくなんてことも、頻繁に起きています。
未発達である幼児期の子どもさんを発達障害専門の病院に連れていけば、なんかしらの診断名が付くのは当たり前になっています。
理由は問わない発達障害の診断なのですから、未発達の子が行けば、みんな発達障害に当てはまってしまうのです。
親御さんとすれば、子どもの専門である人から言われたのだから、きっと子どものより良い育ちのために言ってくれたはずだから、といって無防備で受診すると、そこで療育を受けることが決まってしまう、精神科の薬を飲むことが決まってしまうなんてことが起きてしまいます。
最初はそんなつもりで言っていないのに、振り返れば、子の人生を左右させるような出来事になるなんてこともあるのです。


理由を問わない診断に、何かメリットがあるのでしょうか?
その診断があることで、子ども達がより良く育ち、家族もみんな、前向きに幸せな時間を過ごせるようになるのでしょうか。
「診断を受けてよかった」という人はいないでしょう。
いたとしても、それは診断という逃げ場を得たメリット、公的な補助が得られるというチケットを得たメリットというだけだといえます。
一方で、診断という逃げ場は、同世代と同じ学ぶ機会、体験する機会、働く機会を失います。
月にもらう数万円で、同世代が就職してもらう得る金額との差額を失います。
「我が子をより良く育てたい」という親御さんにとってはデメリットだらけ。
当事者会で「良かった」という本人、親の会で「良かった」という親御さん。
でも、その断片的な良かったのために、多くのものを失っているのです。


理由を問わない診断をいくら受けても、その子がより良く育つアイディアは生まれてきません。
子どもがより良く育つには、その行動、課題となっているものの背景、理由が分からなくてはなりません。
なぜ、目が合わないのか、目が合わないことで、今後、どんな不都合があるのか。
そういった部分が明らかになることで、子育ての方向性とアイディアが見えてくるのです。


時々、「療育に行ったから、うちの子は成長できた」という親御さんもいます。
でも、それも理由を問わない診断と同じです。
発達期にある子どもは、みんな、ほっといても発達するし、成長をします。
もし療育に行ったから伸びたというのなら、行かない時間、行かない子どもは、まったく発達・成長しないことになります。
しかし実際は、家庭でも伸びる。
というか、家庭のほうが伸びる。
というか、自然の中で自由に遊ぶ機会があれば、子は十分に育つ。
それは、今年の4月・5月・6月を体験した私達ならよくわかります。
学校がなくても、療育機関に行かなくても、子は伸びた。
療育機関で伸びたというのなら、家庭生活で過ごしたときの何倍もの早さで伸びたと言わなければ、正しいとはいえません。
結局、入り口が理由を問わない診断なのですから、理由が分からず、ただ診断名だけで療育をしようとしても伸びるわけがありません。


「うちの子は自閉症だから」という親御さん、支援者というのは、育てることを諦めてしまったようにもみえます。
子どもをより良く育てるには、まずは子どものことを知らなければなりません。
それ「自閉症だ」「ADHDだ」「LDだ」なんて言ったって、それは子どものことを知ったことにはならないのです。
子どもの行動の背景を知ることが、子どものことをよく見ることであり、子どもをより良く育てるための一歩ではないでしょうか。
診断名にとらわれている人の目には、子どもの目が入っていないのだと思います。




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