治っていくと、本来の姿が現れる

明確な発語がなくて、表情も、動きも乏しいお子さんのところへ行ってきました。
このような状態ですと、当然、重い知的障害と判定され、医師や支援者からも「無理せず」「この子のペースで」「支援を受けながら」と言われていました。


昔の言い方ですと、カナー型の自閉症の子。
私が部屋に入ってきても、注意を向けることはありません。
まるで、一人の世界で生きているようです。


しかし、一瞬ではありますが、同世代の子どものように、自然な表情で、柔らかい身のこなしを見せることがありました。
それは一緒に思いっきり遊んだときです。
この子は、大きな声を出して笑って、「もっともっと」と要求するのです。


その瞬間の姿は、とても子どもらしく、重い障害のある子には見えませんでした。
たぶん、この子の本来の姿なのだろう、と私は思いました。
と同時に、この子の課題は「神経同士の繋がり」 なのだと感じました。


こういった自然な姿が垣間見れる瞬間というのは、他の子でも見られることです。
特に、感情が揺さぶられるような状態のとき、まるで全身に電気がビビっと駆け巡るみたいで、表情や動きがとても自然になります。
「発達の遅れ」という言葉からは、その部位、機能自体の遅れ、未発達が連想されますが、このように繋がりに課題がある場合もあると感じます。
ですから、このケースの場合の発達援助のテーマは「神経同士の繋がり」となるのです。


神経同士の繋がりが良くなれば、その子らしさが出てくる、という視点は大事だと思います。
もしそういった視点がなければ、表情が乏しいのも、動きが固いのも、障害だから、自閉症だから、となってしまいます。
「障害だから」という言葉は、症状の固定化を生みます。
症状の固定化は、本来の姿を見えなくするものです。


ある意味、発達援助の目的は、本来の姿を取り戻すことだといえます。
障害によって、その人らしさ、本来の姿が表れていない、資質が開花せずにいる。
だからこそ、発達のヌケを育て直す、神経同士の繋がりを育てる。
発達障害が治ったあと、本来の姿、資質が表に出てくると考えています。


バリバリ発達の遅れがあり、バリバリ症状が出ている状態で、それをその人の「個性だ」なんて言う人もいます。
でも、それは障害以外のなにものでもなく、治す対象だと思います。
「障害は個性だ」というのは「障害だから」と同じで、症状の固定化を生みますし、その症状に何の手も打てないことを言い換えているだけです。


その人の個性というのは、最後の最後まで残り続けるものだと思います。
発達のヌケや遅れという普遍的ではないもの、育て、治していけるものは個性とは言いません。
発達のヌケや遅れを育て、治しきった先に、それでも残るものが、その人の個性だと言えます。
治しきっていないのに、それもこれも「個性です」というのは、「私は何もしないけれども、あなたはすべて受け入れてね」という一種の甘えです。


発達のヌケや遅れが育ち、治ってくると、別人のようにガラッと変わる人達がいます。
治ると、本来の姿が表れてくるのだと思います。
言葉の遅れがあり、他人とコミュニケーションを取るのが難しかった子が、陽気で社交的な若者になっていました。
もともと明るくて、人といるのが好きな子が、発達のヌケや遅れによって、その人らしさが出ていなかっただけなのですね、という感じです。


「重い自閉症ですね」と言われていた子が、感情が大きく揺さぶられたとき、自然な表情、動き、姿が表れる。
こういった場面と巡り合うと、「重い自閉症」は本来の姿ではないと思います。
本来の姿ではないものを、その人の「個性だ」と言ってしまう恐ろしさ。
しかも本人ではない他人が。
私は、一瞬見たその子らしい自然な姿が本来の姿であり、もっと表に出てこれるように、治す後押しをしていきたいと思うのです。

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