資質が喜ぶ声を聞く

聴覚過敏がバリバリで、人混みの中は辛くていられない。
発語は小学校に入学してからで、ずっと話すのが苦手だった子。
でも、今、その子は社会人として週40時間以上働き、休みの日にはライブハウスに通うようになっています。
好きなバンドの演奏を聴きながら、踊ったり、同じ会場にいる人達と会話を楽しんだり。
仕事も、プライベートも充実し、「今、私は幸せ」と言っていました。


この言葉を聞いて私は、資質が開花したのだと感じました。
聴覚過敏やその他の課題が治った、ただそれだけではないと思います。
治った先に、本来持っていた資質が飛びだしてきたのです。
しゃべることが苦手で、人と関わること、人と一緒にいることすら苦痛だった姿は、本来の姿ではなかった。
本来の姿は、社交的で、みんなと一緒に盛り上がるのが好きな人。
治った先にあった今の姿は、本人や家族だけではなく、本人の持っていた資質も喜んでいるのだと思います。


「資質が喜ぶ」
これは本人のみの目標ではありません。
子どもの発達を後押しする家族も同じだと思っています。
家族一人ひとりの資質が喜んでいるだろうか?
家族が自分たちの資質が喜ぶ子育てをしているだろうか?
そんな視点で、ご家族とも関わらせていただいています。


発達障害を持つ子は、どっか別のところから急に現れたのではありません。
少なからず、両親から資質を受け継ぎ、また兄弟児も似たような資質を持っています。
ですから、家族の資質を見ること、特に資質が開花し、喜んでいる様子を見ることは、本人の発達援助をする上で、重要な気づきを与えてくれます。
充実した生活、人生を送っているという親御さん、兄弟の背中には、資質を開花させた物語があるものです。
その物語の中には、本人の資質を喜ばせるヒントがあると、私は信じています。


子どもが伸びやかに成長していかない、発達が埋まっていかないのは、親御さんの資質に合っていない子育てをされている、ということが多々あります。
うまくいかないとき、「私の勉強不足」「私のやり方が間違っている」と考える親御さんがいますが、間違っているのは方法ではなく、資質と子育ての関係性です。
直感的に行動してきた人が、知識を詰め込み、考えて子育てしようとするとドツボにハマります。
じっくり考えて行動してきた人が、感覚的に子育てをすると選択を誤ります。
親御さんも、一人の人間であり、その資質と資質を喜ばせる方法は一人ひとり違うのです。
だからこそ、親御さん自身の資質が喜ぶような、活かされるような子育ての仕方をしなければ、子どもも伸びやかに発達、成長していきません。


夫婦も、元を辿れば、赤の他人。
育ってきた環境、歩んできた物語も違えば、資質も違います。
でも、異なる資質同士が刺激し合い、開花した資質が融合した先に、その家族ならではの子育てがあり、一つの家族としての成長があるのだと思います。
お母さんも、お父さんも、自分の資質に合った子育てを行っていく。
そうすると、子どもの内側にある受け継いだ資質も共鳴し、花が開いていこうとするのです。


発達障害を治すのは、途中経過であり、ゴールではありません。
冒頭の若者のように、治ったあと、資質が開花した瞬間、発達援助の役割が終わるのだと思います。
我が子を治す親御さんは増えてきたと感じます。
発達のヌケや遅れを育て直すアイディアが広がってきたからです。
これからも、どんどん治していく親御さん、治っていく子ども達は増えていきます。
だからこそ、私はその先を見つめていきたいと思います。
治ったあと、資質を開花させ、喜ばせる生き方をする人達を増やしていくことです。


私も、たくさんのご家族と関わらせていただきました。
そして今思うのが、子どもの資質を開花させるところまで後押しできる親御さん、ご家族というのは、一人ひとりがご自身の資質を開花させ、資質が喜ぶような生活、子育てをされているということです。
発達援助とは、ただ発達のヌケ、遅れを育て直す行為のことではなく、その子の持つ資質を開花させるまでの営みだと私は考えています。
「資質が喜んでいるだろうか?」という問いかけは、本人だけではなく、家族にも向けられるのです。

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