必要なくなった支援を手渡していける社会

発達障害と経済的な負担というテーマでも、多くの研究、調査が行われています。
たとえば、2014年ペンシルベニア大学の研究グループの試算では、自閉症の人が生涯に渡って使うお金が、知的障害を伴わない場合は約140万ドル、伴う場合は240万ドル、日本円にすると約1億4千万~2億4千万円となっています。
もちろん、家族の負担だけではなく、税金も含みます。
他にも、こういった研究、調査はされていますが、あまり日本では、というか、身近な支援者からこういった話は聞きませんよね、話題にも上がりませんよね。


発達障害による心理的な負担は話題にするのに、経済的な負担は話題にしない。
これはおかしい話だと思いますね。
家族の経済的負担だって、みんながみんな、お金に余裕があり、ずっと負担し続けられるわけではありません。
当然、国のお金、税金だって、無限にあるものではなく、ある意味、日本全体で共有している財産だといえます。
特に、自分の給料や事業の収入の主が税金からのお金である場合、経済的な負担にも目を向ける必要があると思います。
いや、同じ国に住む社会人なら税に対する意識を持つのは当然でしょう。
それなのに、ほれ、支援を利用しよう、もっと国に訴えていこう、とだけ言い続けるのは無責任と言われても仕方がないと思います。


支援を利用することは悪いことではありませんし、必要な人が安心して利用できる世の中の方が良いに決まっています。
でも、支援者たちが「利用しよう」という支援は、治すことが目的でもなければ、軽度化することが目的でもありません。
敢えて言うのなら、二次障害にならないのが目的。
その二次障害だって、支援者は「なる前の予防が大事です」と言って、結局、なった人を治せるわけでもない。
それに、そもそも予防もできていないし、本人の意思を無視した支援者の介入を受けることによって病んでいく人が後を絶ちません。


発達障害というのが、発達しない障害であり、支援を受け続けることで、より良い生活と選択肢を増やすことになるのなら、生涯に渡る支援は必要な支援であり、その人達が安心して支援やサービスを利用できる社会を目指すのは、私も賛成です。
しかし、発達障害の人達も発達しますし、たとえすべての発達課題をクリアできなかったとしても、軽度化し、部分で見れば治っていくところもある。
ですから、「治しやすいところから治していく」というのは、本人や家族の心理的、経済的負担を減らし、自立や選択肢を増やすことにつながります。


それなのに、「治るなんておかしい」「治るというヤツが怪しい」などと言うだけで、大卒の若者を就労支援Aとか、Bに送り込んで「支援やってます」というギョーカイは、結局、既得権益が揺さぶられそうだから、必死に抵抗しているだけにしか見えません。
昔、流行った抵抗勢力ってやつです。
郵政族、道路族、特支族…。


本当に、その人の人生を考えるのなら、「一生涯の支援」などとは言えないはずです。
支援は必要なときに利用するものであり、生涯利用するものではありません。
もし生涯利用する必要があるとしたら、それ以上、伸びないし、改善しないし、治らない部分においてです。
人そのものが障害なのではないのですから。


必要ない支援を受け続けることは、心理的、経済的負担を増すだけではなく、その人の可能性を制限することにもつながりかねません。
親御さん達とお話ししていると、「同級生の〇〇くん、うちの子よりも伸びる可能性があると思うんです」「あの子も、本気でやったら、治っていくと思うんです」などと言われます。
治る道を歩んでいる親御さん達というのは、他の子を見ても、治る可能性がわかるんです。


親御さんのお話や支援者や先生方からの相談で、間接的に関わったり、知ったりする子の中にも、「もうちょっと頑張れば、治っていくのに」と思う子ども達がいます。
でも、実際は治っていかないし、ある程度で伸びがとまってしまう。
何故なら、生涯に渡る支援が前提になっているからです。


よくあるパターンが、幼い頃、発達の遅れが目立つし、心身共に安定しない、行動も大変という子がいて、支援を受けることで安定し、伸びが見られてきた。
就学後は、普通級や支援級で支援を受けながら学び、放課後は児童デイに通う、幼いときから関わってもらった医師や支援者と定期的に関わる。
で、本人の発達、成長に伴い、もっとチャレンジしても大丈夫、支援を減らしても大丈夫、特別な支援ではなく、同世代の子と同じ習い事や環境で大丈夫なくらいまでになったのに、そのまま、支援を受け続ける。
親御さんの想いとしては、支援を受け続けた結果、幼かったときの不安定さはなくなり、伸びてもきているから、このまま支援を受け続けるのが良い、と考える。
それもわからなくもありませんが、ある段階からピタッと伸びが止まり、逆にどんどん障害者っぽくなっていく、というパターン。


これは、支援は必要なときに利用するものではなく、「生涯に渡って受けるもの」という誤解が、子どもの内なるメッセージを見落とす結果につながった例です。
本当は、支援が必要な時期を過ぎたのに、昨日のブログで書いたように、より自然な環境の中で、複雑な刺激が、その子の発達に必要な段階まできていたのに、不安定な時期に合わせた支援を継続してしまったため、伸びが止まってしまったということ。
伸びが止まっただけならまだしも、小学生くらいの頭の柔らかい子ども達の場合は、特別な環境、単一な刺激に、脳も、身体も適応していってしまうこともあります。
それが「どんどん障害者っぽくなっていく」ということ。


シンプルに言えば、支援が必要な時期があり、安定する時期があり、支援を減らす時期があり、同世代と同じ環境に移行する時期がある。
地域の習い事や活動で、十分楽しめ、学ぶことができる段階まで発達した子が、ずっと児童デイに通い続け、卒業後は福祉なんてことはよくあります。
「地域のスイミングに通い始めたら、ぐっと伸びました」
「その習い事の中では、だれも特別支援級の子だと気づかれず、うちの子も、みんなと一緒に活動できています」
なんていう家族は少なくありません。
特別支援の世界では、「障害がある子」「支援が必要な子」だとしても、地域の習い事に行けば、ちょっと変わった子になり、そうこうしている間に、そこら辺にいる子になる。


私は民間人で、税金による援助は受けておりません。
私の事業の収入のすべては、利用してくださる方のお金です。
飛行機代や宿泊費を、個人で、または仲間内で割って出し、私を呼んでくださる方達がいます。
このときは、経済的な負担が大きいかもしれませんが、生涯に渡ってかかる1億、2億という金額からしたら少ないといえます。
民間人の私が、「発達のヌケを育てなおしたい」「少しでも、一つでも課題をクリアし、今をラクに、そして将来の可能性を広げたい」という方達に対し、助言やアイディアによって後押しするのは、何の問題もないと思います。
むしろ、社会のニーズとも合致しているのではないでしょうか。


誤診でも、軽度でも、なんでもいいです。
一人の人が、支援が必要な段階を脱し、自分の足で生きていけるのなら、それでいいのです。
10ある支援が必要な部分の中で、1つでも支援がなくても大丈夫、という状態になれれば、その1は、他の誰かにお渡しすることができる。
そうやって、必要な人に支援が渡っていく世の中の方が、安心して暮らせる社会、多様な人達が生きやすい社会になると思います。


治るという人が詐欺師なら、治しも、改善も、軽度化もせず、ただただ社会に負担を求める人達のことを何と呼べば良いのでしょうか。
本人や家族の心理的な負担だけではなく、経済的な負担、そして社会の目も持つ必要があると思います。
社会は発達障害の人達を排除しようとしていませんし、むしろ、彼らに社会の一員として活躍してほしいと願っています。
国の発達障害の人達に対する予算だって、制度だって、年々拡充しているのです。
既得権益を守りたい人達の言葉を鵜呑みにしてはなりません。
そのために、実社会に出て、学ばないといけないのです。
実社会は、特別支援の世界で教えてくれないことをたくさん教えてくれるところですから。

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