「自分が関わっていない時間は成長も、発達もない」という思いこみ
北海道はすでに2学期が始まっていますが、本州でも昨日から2学期が始まったところがあるそうですね。
有難いことに、お子さんの夏休みの変化、成長を伝えてくださるメールがたくさん届いています。
学校から離れ、とことん発達と向き合える1ヶ月は、子どもにとっても、家族にとっても、貴重な時間になったと感じます。
あちらこちらで、発達の「ドカン!」が起きているようです。
夏休みは、子どもの心身に発達する余白を与えるとともに、多忙な先生方にも余裕を生みます。
ですから、2学期の先生というのはエネルギーとやる気に満ちています。
で、特に熱心な先生は、夏休みの研修で得た知識や成果を子どもに還元しようとする。
この姿勢自体は、素晴らしいことなのですが、得てきた成果によっては、先生と生徒の間でギャップを生むこともあります。
たくさん遊び、たくさん心身を動かし、発達と向き合った子ども達にとっては、夏休み前後で、発達自体が変わっているのです。
ですから、2学期の始まりは、その子の発達を確認し、そこから指導を組み立てていく必要があります。
必要だった支援が、必要ではなくなっていることもある。
支援の形態を、よりナチュラルな形態へと変える必要性も出てくる。
そこに、夏休み中、特別支援を学んだ先生が、「さあ、やってやるぞ」と待ち構えていたら溝ができていくのです。
2学期の始まりは、このギャップに悩む親御さんが多いです。
夏休み中、発達のヌケを育て直し、中には「ドカン」と発達した子どもさんもいる。
だけれども、2学期が始まってみれば、1学期の延長だったり、「ドカン」が来る前の子どもの状態から教育内容が組み立てられたり…ということが。
そこで親御さんが、「こんな風に変わりました。成長しました」と伝えても、共感してくれるが、指導の内容は変わらない、特別支援のまま。
これは学校の先生に限らず、支援者というのは、家庭での成果、成長を認めたくないもの。
だって、愛着障害を持っている支援者というのは、「ぼくが いなくても だいじょうぶ っていわないで」と潜在的に思っているから。
また、これに関連して、「学んだことを実践したい」という想いは、「より良い支援ができるようになった僕は、これまで以上に、いろんな人から必要とされるはず、もっともっと必要としてくれる」という本心が隠れているから。
こういった支援者が、「自分が関わっていない時間は成長も、発達もない」という認識を持ち、夏休みの流れを切ってしまいます。
本人や親御さんが、2学期が始まると、それまでの教育、支援に違和感を感じるのは、このためです。
発達は日々起きていますし、途切れることなく流れているものです。
夏休みを切り落とし、1学期と2学期を繋げてしまうと、加速した流れが分断されてしまいます。
残念ですが、夏休みでついた勢いがしぼんでしまう、学校の中に反映されていかない、という子ども達は少なくないように感じます。
今日は、先生をメインに書いてしまいましたが、「自分が関わっていない時間は成長も、発達もない」というのは、先生と支援者の間でも溝を作ることがあります。
コンサルテーションと言って、何か月かに1回、学校に来る支援者がいる。
支援者は、いかに自分が専門知識を持っているかを披露して帰っていく。
で、私のところに学校の先生から相談が来て…
「子どもの実態に合わないことを指示してくる」
「親御さんが、学校よりも支援者に重きをおいているから、やらないとクレームがくる」
「でも、やっても、当然、子どもはできないし、効果が出ない」
「効果が出ないと、『先生のやり方が悪い』と言われ、次回のコンサルテーションの時期を早めましょうとなる or 親御さんが個人的に支援者と連絡を取り合って、どんどんチグハグになっていく」
という最悪なパターンが出来上がります。
専門家だと自負している支援者は、自分が一番だし、専門性を持っていると思っているものです。
だから、「私が関わると効果がある」「関わらないと、できないだろうし、効果がないのは、その支援者の腕が悪いから」と捉える傾向があります。
ですから、学校の先生と支援者の間でも、「自分が関わっていない時間は成長も、発達もない」問題が起きるのです。
こういった相談が先生たちからくると、「学校での子どもの姿、成長を一番側で見ているのは先生でしょ」「介護をするために、先生になったわけじゃないでしょ」と伝えます。
コーディネーターか、専門家かわかりませんが、数か月に1回、しかも短時間しか見ていないような人間の意見に負けてどうする、ちゃんと意見や考えが述べられなくてどうする、と私は思います。
せっかく教員免許をとり、教員試験に受かり、志を持って教壇に上がっているのなら、子どもと子どもの成長のために闘わないでどうするのでしょうか。
コンサルテーションも、学校の指導も、“間(ま)”ができます。
コンサルテーションとコンサルテーションの間には、数か月があり、学校にも、休日と家庭生活があります。
だから、支援者というのは、間を埋めなければなりません。
そのために、発達の流れ、受精から現在に至る一人ひとりの物語を掴んでおく必要があるのです。
一方で、家族には、間のつなぎ目がほとんどありません。
本人に至っては、間ができるはずはなく、流れに乗り続けています。
ですから、本人が流れの中で感じている主観が一番的確な答えであり、家族の感覚が支援者よりも優先されるべきだと思います。
私が「家族の中でこそ、発達が育まれる」と言っているのは、発達の流れを分断することなく、流れに沿って発達とその後押しができるからです。
不登校の記事でも書きましたが、知識や技能を得る、バリエーションのある刺激を受ける、自立するための基礎を養うには、学校が最適な場所だと思います。
でも、発達を考えると、そうは思いません。
やはり発達の舞台は、家庭生活であり、家族との営みの中。
発達の時間は、言語を獲得する前、勉強をする前だと思います。
だからこそ、2学期の教育内容に違和感を感じた親御さんは、夏休みの中で、どういった発達、変化があったのかを伝え、それに伴った学習の変化を求められると良いと思います。
ただその前に、私が学校に求めようとしているのは、学習の部分なのか、発達の部分なのか、整理されるのが良いです。
時々、学校に対して、発達を求めている方がいます。
もちろん、学校でも発達が促されれば良いのですが、やっぱり学校のメインは学習だと思います。
でも、発達のヌケを育て直し、埋めていくのは、発達の流れを掴んでおかないといけませんので、子どもの人生の、生活の部分にしか関わらない人間に、それを求めるのは違うような気がします。
なので、当然、私も、発達のヌケの確認と育てるアイディア、発達の流れと掴み方をお伝えするだけで、発達のヌケの育て直しはやってませんし、できません。
発達は家庭で担い、学習は学校で担う。
これが自然で、良い形だと思います。
ここに「支援機関」が入っていないのがミソです(笑)
有難いことに、お子さんの夏休みの変化、成長を伝えてくださるメールがたくさん届いています。
学校から離れ、とことん発達と向き合える1ヶ月は、子どもにとっても、家族にとっても、貴重な時間になったと感じます。
あちらこちらで、発達の「ドカン!」が起きているようです。
夏休みは、子どもの心身に発達する余白を与えるとともに、多忙な先生方にも余裕を生みます。
ですから、2学期の先生というのはエネルギーとやる気に満ちています。
で、特に熱心な先生は、夏休みの研修で得た知識や成果を子どもに還元しようとする。
この姿勢自体は、素晴らしいことなのですが、得てきた成果によっては、先生と生徒の間でギャップを生むこともあります。
たくさん遊び、たくさん心身を動かし、発達と向き合った子ども達にとっては、夏休み前後で、発達自体が変わっているのです。
ですから、2学期の始まりは、その子の発達を確認し、そこから指導を組み立てていく必要があります。
必要だった支援が、必要ではなくなっていることもある。
支援の形態を、よりナチュラルな形態へと変える必要性も出てくる。
そこに、夏休み中、特別支援を学んだ先生が、「さあ、やってやるぞ」と待ち構えていたら溝ができていくのです。
2学期の始まりは、このギャップに悩む親御さんが多いです。
夏休み中、発達のヌケを育て直し、中には「ドカン」と発達した子どもさんもいる。
だけれども、2学期が始まってみれば、1学期の延長だったり、「ドカン」が来る前の子どもの状態から教育内容が組み立てられたり…ということが。
そこで親御さんが、「こんな風に変わりました。成長しました」と伝えても、共感してくれるが、指導の内容は変わらない、特別支援のまま。
これは学校の先生に限らず、支援者というのは、家庭での成果、成長を認めたくないもの。
だって、愛着障害を持っている支援者というのは、「ぼくが いなくても だいじょうぶ っていわないで」と潜在的に思っているから。
また、これに関連して、「学んだことを実践したい」という想いは、「より良い支援ができるようになった僕は、これまで以上に、いろんな人から必要とされるはず、もっともっと必要としてくれる」という本心が隠れているから。
こういった支援者が、「自分が関わっていない時間は成長も、発達もない」という認識を持ち、夏休みの流れを切ってしまいます。
本人や親御さんが、2学期が始まると、それまでの教育、支援に違和感を感じるのは、このためです。
発達は日々起きていますし、途切れることなく流れているものです。
夏休みを切り落とし、1学期と2学期を繋げてしまうと、加速した流れが分断されてしまいます。
残念ですが、夏休みでついた勢いがしぼんでしまう、学校の中に反映されていかない、という子ども達は少なくないように感じます。
今日は、先生をメインに書いてしまいましたが、「自分が関わっていない時間は成長も、発達もない」というのは、先生と支援者の間でも溝を作ることがあります。
コンサルテーションと言って、何か月かに1回、学校に来る支援者がいる。
支援者は、いかに自分が専門知識を持っているかを披露して帰っていく。
で、私のところに学校の先生から相談が来て…
「子どもの実態に合わないことを指示してくる」
「親御さんが、学校よりも支援者に重きをおいているから、やらないとクレームがくる」
「でも、やっても、当然、子どもはできないし、効果が出ない」
「効果が出ないと、『先生のやり方が悪い』と言われ、次回のコンサルテーションの時期を早めましょうとなる or 親御さんが個人的に支援者と連絡を取り合って、どんどんチグハグになっていく」
という最悪なパターンが出来上がります。
専門家だと自負している支援者は、自分が一番だし、専門性を持っていると思っているものです。
だから、「私が関わると効果がある」「関わらないと、できないだろうし、効果がないのは、その支援者の腕が悪いから」と捉える傾向があります。
ですから、学校の先生と支援者の間でも、「自分が関わっていない時間は成長も、発達もない」問題が起きるのです。
こういった相談が先生たちからくると、「学校での子どもの姿、成長を一番側で見ているのは先生でしょ」「介護をするために、先生になったわけじゃないでしょ」と伝えます。
コーディネーターか、専門家かわかりませんが、数か月に1回、しかも短時間しか見ていないような人間の意見に負けてどうする、ちゃんと意見や考えが述べられなくてどうする、と私は思います。
せっかく教員免許をとり、教員試験に受かり、志を持って教壇に上がっているのなら、子どもと子どもの成長のために闘わないでどうするのでしょうか。
コンサルテーションも、学校の指導も、“間(ま)”ができます。
コンサルテーションとコンサルテーションの間には、数か月があり、学校にも、休日と家庭生活があります。
だから、支援者というのは、間を埋めなければなりません。
そのために、発達の流れ、受精から現在に至る一人ひとりの物語を掴んでおく必要があるのです。
一方で、家族には、間のつなぎ目がほとんどありません。
本人に至っては、間ができるはずはなく、流れに乗り続けています。
ですから、本人が流れの中で感じている主観が一番的確な答えであり、家族の感覚が支援者よりも優先されるべきだと思います。
私が「家族の中でこそ、発達が育まれる」と言っているのは、発達の流れを分断することなく、流れに沿って発達とその後押しができるからです。
不登校の記事でも書きましたが、知識や技能を得る、バリエーションのある刺激を受ける、自立するための基礎を養うには、学校が最適な場所だと思います。
でも、発達を考えると、そうは思いません。
やはり発達の舞台は、家庭生活であり、家族との営みの中。
発達の時間は、言語を獲得する前、勉強をする前だと思います。
だからこそ、2学期の教育内容に違和感を感じた親御さんは、夏休みの中で、どういった発達、変化があったのかを伝え、それに伴った学習の変化を求められると良いと思います。
ただその前に、私が学校に求めようとしているのは、学習の部分なのか、発達の部分なのか、整理されるのが良いです。
時々、学校に対して、発達を求めている方がいます。
もちろん、学校でも発達が促されれば良いのですが、やっぱり学校のメインは学習だと思います。
でも、発達のヌケを育て直し、埋めていくのは、発達の流れを掴んでおかないといけませんので、子どもの人生の、生活の部分にしか関わらない人間に、それを求めるのは違うような気がします。
なので、当然、私も、発達のヌケの確認と育てるアイディア、発達の流れと掴み方をお伝えするだけで、発達のヌケの育て直しはやってませんし、できません。
発達は家庭で担い、学習は学校で担う。
これが自然で、良い形だと思います。
ここに「支援機関」が入っていないのがミソです(笑)
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