【No.1017】「障害がある子に見えない」という言葉の意味の変化

一昔前は、「障害がある子に見えない」「本当に、自閉症なの?昔は、こういう子、普通にいたよ」なんて口にすると、「そういうのが一番傷つくんです!」「そうやって、本人の自己肯定感が失われてくんです!」なんてことを言う人が大勢いました。
ですから、一般の人も含め、一度、診断を受けた子に対しては、ちゃんと障害者っぽく、障害者として接することが求められました。
これは、本人に対しての配慮というよりも、親御さんに対する配慮だったように感じます。
「見えない障害なんだから、周囲が理解して」というのは、未だに言う人がいるのかもしれませんが。


独立、起業してからは、誰に忖度する必要もありませんし、そもそも思ったことをストレートに表現する私ですので、「本当に、障害があるんですかね」「診断基準、満たしていますか?」なんてことを言います。
ここ最近は、どう考えても、本人の特性ではなく、単なる発達の遅れ、未発達だと感じるケースが多くなっています。
自閉症の中核的な特性は、社会性の部分です。
それなのに、1歳、2歳、3歳の子が、「自閉症」という診断名を受けています。
こういった幼い子ども達の社会性って…。
私が思うに、社会性の障害の部分が出てくるのは、もっと年齢が高くなってから生じるでしょうし、そもそも同年齢の子ども達の発達を見ても、みんな、まだ社会性が芽生え始めたばかりですね。


過剰診断やその原因まで問わない診断形式ですので、「本当に、障害なの?」と思うようなケースが増えていく一方だと思います。
しかし、最近、私が思うのは、治っていくアプローチを教わり、実際に治っていく人達が多くいるからこそ、その障害を疑う場面が増えたということです。
つまり、以前は、私の無知により「障害」と見えていた人、部分が、今は育み方が見えるし、治る可能性が高いと感じられるようになったのです。


私が施設で働いていた頃、いや、この事業を始めた当初は、「治る」が見えていなかった。
だからこそ、対処療法を学んだし、実践もしてきた。
「治らないんだから、少しでもラクに」という具合に。
当時、私が治す方向へ支援できていなかったのは、今のような過剰診断が多くなかったからでも、超早期診断が行われていなかったからでもありません。
単に、私が知らなかったから。
今振り返れば、治る可能性があった子ども達も多くいたと思います。
ですから、子ども達の“障害”のせいではなく、彼らの育みにかかわる者の問題だったのです。


発達のヌケや未発達の部分を育む方法を知っているか、知っていないか。
実際に治った人を知っているか、知らないか。
「知る」ということは、本当に大事なことだと思いますし、親御さんや先生なら、子の将来を左右しかねないとすら感じます。
何故なら、固定された障害と見ている限り、治そうなどとは思いもしないから。
そして何よりも、「障害児」「障害者」として見て、接することは、その子に「障害者として生きなさい」というメッセージを常に与え続けることになってしまうから。
メッセージとは、言葉だけではなく、その接し方、態度、生活全般を通して伝えられ、影響を及ぼします。


言葉を発しない子が、周囲から「想いも、考えもない子」と見られ、ずっと分からない子として育てられてきた。
その子が大人になり、ようやく自分の想いに気づいてくれる人と出会った。
伝える手段がなかっただけで、しっかりとした想いと考えを持った子。
子ども時代から、そこに気づいていれば、彼の人生、学ぶ機会はまったく違ったものになったのに。
失われた時間は、どう頑張っても戻ってはこない。
こんな話、幾度となく耳にしました。
これもまた本人ではなく、周囲の人間の「知らない」が及ぼした悲しい結果だといえます。


せっかくネットがあり、行こうと思えば、全国どこでもすぐに行ける時代を生きているのですから、その恩恵は十分に味わったらよいと、私は思います。
令和の時代、住んでいる地域に治った人がいない、治そうなんて言う専門家がいない。
そんなの理由にはなりません。
野村克也監督がよく言っていた言葉の中に、「先入観は罪、固定観念は悪」というものがあります。
もしかしたら、子が治らないのは、その地域の問題ではなく、治らないという先入観を持ち、「障害者は、周囲が支援し、理解してあげる存在だ」という固定観念を持っている、周囲の大人が原因なのかもしれません。


どの道もそうですが、自信のない人間ほど、専門書を買いあさり、新書をバカにし、権威に惹かれ、名も無い実践家をバカにする者です。
しかし、実力がない者は、専門書を読んでも、理解できない。
別の言い方をすれば、本質を見抜く目があれば、専門書も、新書も、ブログも、権威も、実践家も、
親御さんも、みんな同じに見える。
本にせよ、人の発信にせよ、その価値を決めるのは、受け取った人間の“目”なのかもしれません。


私には、何よりも質の高い、貴重な情報が溢れている空間だと感じます。
特に、ライブ感のある生きたやりとりが展開されているところが素晴らしいといえます。
実際に治った人、その人が治った道筋を知ることは、目の前にいる子の未来を変えていくと思います。
まず知ること。
そして、自分の内側にある先入観と固定観念を壊すきっかけを与えてくれる。
是非、『治そう!発達障害どっとこむ』  https://naosouhattatushogai.com/  を覗いてみてください。
私は自信を持ってお勧めいたします!

コメント

このブログの人気の投稿

【No.1358】体軸が育つ前の子と、育った後の子

【No.1364】『療育整体』を読んで

【No.1370】それを対症療法にするか、根本療法にするかは、受け手側の問題