【No.1393】発達障害アプローチマニアは、かつてのTEACCHオタク、ABAオタク
「発達障害」と言われた1秒前と1秒後で、子ども自身はなにも変わらない。
だけれども、その1秒後で親は大きく変わる。
「ああ、これで基準通りの発達ができない」
「ああ、これで普通の子にはなれない」
「ああ、これでいろんなことを諦めないといけない」
子育ての楽しみが「できる」だったはずなのに、その瞬間から「できない」に変換される。
専門家に「発達障害」と言われようが、どっかの誰かが作った診断基準に当てはまろうが、子どもは子どものまま。
だけれども、ここで多くの親御さんが子育ての方向性、方法を変えてしまう。
いや、実際のところは「変えないといけない」と思ってしまう。
本当に変える必要があるのだろうか。
発達の遅れた子と、遅れていない子は同じ方法で育ててはいけないのでしょうか。
別の言い方をすれば、発達の遅れた子と遅れていない子、それぞれ固有の子育てというものがあるのでしょうか。
「子どもは一人ひとり違う」というのはみんな知っていて、当たり前なのに、なぜか普通の子と遅れた子、凸凹している子は分けられてしまう。
それがこの国の特別支援であり、多くの親御さん達も行っていること。
「発達が遅れているのだから、何か特別な方法、関わり、アプローチ、食事や薬によって良くなる」
というのは大きな勘違いだと私は思います。
そういったものを信じちゃう時点で、ここでいうと支援者、専門家に騙されているのです。
そして親御さん自身も思考停止状態だといえます。
一言で「発達が遅れている」といっても、その背景は一人ひとり違いますし、本当にそれが遅れているのか、今後も続くほどの問題なのか、そもそも問題なのか、だからなんなのか、その子の将来の自立や幸せ、生活の質を決めるものなのか、ツッコミどころ満載です。
「発達が遅れているから特別な方法」ではなく、「目の前にいる我が子がよりよく育つ方法」が必要なのではないでしょうか。
どうも全体的に前者を求めている人が大多数である印象を受けます。
それを求め続けている限り、良くなることはあっても、治ってはいかない。
それが私の率直な感想です。
子どもがよりよく育つための環境づくり、後押しを続けていった結果、振り返ると「治っていたね」が実際のところ。
発達障害アプローチマニアは、かつてのTEACCHオタク、ABAオタクと同じでしょう。
この世界に20年ばかりいると、まさに「歴史は繰り返す」「歴史が証明する」ということばかり目にするのです。
20年前から発達の遅れがあろうとも、それを取り戻すだけの子育て、育ちをした家庭はいますし、知的障害、発達障害があろうとも自立していった家庭はいます。
じゃあ、その家庭に共通していたのは?
それが特別な方法を目指すのではなく、目の前の我が子がよりよく育つための子育てを目指していたという点。
もっと本質的なところをいえば、その子のことをちゃんと見ることができていたかどうかであり、さらに深いところをいえば、親である自分と我が子を切り離すのではなく、同じ共通した資質や課題、文脈、つながりの中で捉えられることができていたかどうか、になると考えています。
結局はアセスメントなんです。
アセスメントができていないから、アプローチに振り回される。
アプローチなんて、なんだってよいわけです、その子がよりよく発達できたのなら。
そんなシンプルなことを2024年も、みなさんにお伝えできたらよいなと思っています。
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