【No.1399】特別支援という幻想

専門家が「本当の〇〇」と言い出したら、その内容、いや、その人自体がニセモノになる。
「これが本当の自閉症支援だ」
「これが本当の〇〇アプローチだ」
そんな風に言うとき、対象はそれを受け取る子ども達、親御さん達ではなく、自分とは異なる考えで実践している専門家となる。
「あいつが実践している自閉症支援は間違っているから、私が本当の自閉症支援を教えてやる」といった具合に。
これは特別支援の世界に限らず、職場でも、人間関係でも、「本当の」「真実は」「正しいのは」と言っちゃう人はいるでしょう。


特別支援の世界に、「本当」「真実」「正しい」というものはあるのでしょうか。
そもそもあなたのお子さんが、本当に自閉症なのでしょうか、発達障害なのでしょうか?
自閉症という(我々とは異なる)人間がいるのは真実なのでしょうか?
そのあなたのお子さんに付けられた診断は正しいのでしょうか?


コロナ騒動も、ようやく皆が冷静になり、そのおかしさを口にするようになりました。
注射の危険性、超過死亡、過剰な感染対策、人権侵害、自由の制限など、それらの問題について「間違いだった」という人も増えてきました。
でも、3年間のコロナ騒動の問題は、上記のことではありません。
問題の根本は、PCR検査、その診断なのです。
鼻やのどにウィルスの断片があっただけでも、その検知したウィルスに感染する力がなくても、そもそも医師の所見がなくてもただキットが陽性になれば否応なく「コロナ感染者」としていたことです。
診断がおかしければ、それ以降の対応、出来事すべてが間違ってしまう。


「普通級と支援級、どっちがよいでしょうか?」
「〇〇アプローチの仕方は合ってますか?」
「療育でこんな支援を受けているのですが、これは効果があるのでしょうか?」
「正しい発達援助を教えてください」
様々なご相談を日々、受けています。
でも本当に我が子が発達障害なのか、自閉症なのか、支援が必要な普通の子とは違う子なのか、疑問に思う親御さんは少ないと感じます。
診断名が正しいと思った時点で、どんな子育て、アプローチをしたとしても、ずれが生じてしまうものです。


特別支援の世界の最大の罠は、この診断、診断名だと私は考えています。
人為的に決められたチェックリストに、これまた第三者の主観によって記入がされ、診断名が決まっていく。
だけれども多くの親御さん達は、医師という権威がつけた診断名に「正しさ」を無意識的に感じてしまう。
そしてその診断名に沿ったアプローチに「真実」を感じ、いつしか自分がやっていることが「本当」の支援、子育てだと認識してしまう。
だから子どもに良い変化が起きないとき、課題が続いたままのとき、「本当の支援は?」と別の専門家、アプローチを求めていく。


私のところには「真実に目覚めました系」の親御さん達がたくさんいらっしゃいます。
「発達障害は治る」
「身体からのアプローチで改善する」
「医療や福祉は生涯支援で繋いでおこうとする」
でも、これはまだ半分くらいしか目が覚めていない状態です。
診断がウソで、そこから始まる特別支援全部が幻想。


想像してみて下さい、発達障害という診断名がこの世に存在していなかったら。
目の前にいる子どもが得意なところを伸ばそうとするのを温かく見守り、応援するでしょう。
苦手なことがあれば、その子本人が乗り越えようとするのをゆっくり見守り、または別の方法やアイディアを提供するでしょう。
ヒトという動物に対して、発達が凸凹しているとか、遅れているとか、仰々しく指摘し、レッテルを貼り、なにか特別なことをしようとするのは自然なことなのでしょうか?
早期に見つけ、早期にアプローチを始めるのは、動物本来の営みなのでしょうか?
それって誰かが勝手に決めた「正しさ」だったりしませんか。


子育てに正解はないといいますが、それは発達援助だって、なんとかアプローチだって、(特別支援)教育だって、そうだと思います。
私が行っている”改善”だって、”治す”だって、本当に正しいのかはわからないのです。
だからこそ、常に謙虚でなければならないと思います。
それは私の姿勢だけではなく、子ども達、その子自身の声を聴くことへの謙虚さ。


どうも「この子は発達障害だから」「自閉症だから」「知的障害だから」という感じで話が進んでしまっていることが多いような気がします。
でも、その子自身、発達障害という名前を望んでいるのでしょうか、その診断名に納得しているのでしょうか、それが嬉しいのでしょうか。
同じように、その子が改善したいと思っているのか、治りたいと思っているのか、そのあたりの声をきちんと聴く必要があるのでは、と思うことがあるのです。
子どもさん本人が蚊帳の外で話が進んでいこうとするのは違う。
治したいのは子どもさん本人じゃない場合もある。


本当にその子に障害があるのか、それが障害と言えるような変化のない話なのか、誰にもわからない。
わからないからこそ、正しい子育ても、正しい発達援助も、正しいアプローチも存在しない。
真実や正解がわからないから、私たち大人は悩む。
だけど、「悩む」ということ自体、すでにズレてしまっているのだと思います。
子どもの声を聴き、笑顔を見れば、何をすればいいか、わかってくるから。
もしその声が聴けなくなっているのなら、子どもの笑顔を純粋に見ることができなければ、大人側が心身を整える必要があるのではないでしょうか。
そしてそれでも子どもの声が聴こえないのなら、私も一緒に声を聴こうと思います。
それが私の仕事のスタンスです。


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