2021年7月6日火曜日

【No.1176】無駄という余白に発達が生じる

ある人は祭りについて、「人間の愚かさの解放」だと言い、またある人は「定期的に密になることで、集団免疫をつけるため」だと言っていました。
明日は七夕で、函館市内の子ども達は各家を回ってロウソク、お菓子を貰うという行事がありますが、昨年に続き、自粛のお達しがでています。
お祭り、行事、文化というのは、一度途絶えると再興するのが難しいと言われています。
文化というものの本質が、ヒトからヒトへの受け継ぎによるものだからでしょう。


目に見えるモノ、確認することができるモノしか認めないような、価値がないような、そんなことを言っているから人間として進歩し、ヒトとして退化しているのだと思います。
心身の健康には動物としてのヒトに戻る機会が必要で、それが一見するとやってもやらなくても困らないように見える祭りという空間に存在していたはずです。
日常と非日常は、人間とヒトに言い換えられます。


教育や保育、家庭での子育てを拝見させていただく機会が多い私ですが、人間を育てようとする大人が大多数だと感じます。
とくに発達に遅れのある子ども達に対する教育、支援の場合、「なるべく早く人間に育てよう」「少しでも人間らしくなるように教えよう」という雰囲気が伝わってきます。
人間として困っているのか、ヒトとして困っているのか。
そういった視点が乏しいのが気になります。


人間として困っている部分は、社会という環境の中で折り合いがついていないということですから、環境に対するアプローチが中心になります。
しかし、環境側も生きていますので、常に良い具合に折り合いが付くわけでも、折り合いが必ず付くわけでもありません。
理解を求めても、理解したくない人もいる。
環境調整をしても、別の場所には持っていけないこともある。
ですから、発達障害を人間として困っていると捉え、環境側との折り合いをつけようとしている限り、本人に進歩はありません。
日本の特別支援の誤りは、ここにあると考えています。


発達障害は「生まれつきの障害」というような誤解が生まれるくらいですから、胎児期を含め、発達の初期に生じている不具合だとわかります。
この発達の初期とは、ヒトの部分ではないでしょうか。
ヒトとしての部分、動物としての部分に不具合があるのなら、そこを育てようとするのが道理です。
でも、特別支援はヒトとしての育ちを無視し、あくまで人間の部分に、そして環境に適応することを目指してしまっている。
だから、障害者として生きる環境、つまり、福祉適応を主眼として学校教育が行われ、その福祉のような学校教育に合わせて幼児教育や療育が行われてしまっているのです。


今の子ども達を見ていると、ネットの世界に非日常、祭りを求めているような気がします。
大人の目の届かない場所がどんどん減ってしまったからでしょう。
目に見える成果ばかりが求められ、子ども達から無駄が取り上げられてしまったこともあるでしょう。
大人の目の届かない場所は非日常的な空間であり、無駄な時間はヒトとしての育ちに戻る機会だといえます。


特別支援の世界では長らく、クルクル回るとすぐに止められ、ハイハイをすると「ちゃんと歩いて」と言われ、洋服の首元をかじると「それでは福祉施設で嫌われる」と言われてきました。
でも、それはすべてヒトとしての育ちで必要な行動。
発達障害の子ども達も同じように、無駄が撮り上げられてしまった結果、歪みが大きくなっているのだといえます。
年々問題が大きくなる子どもというのは、行き場を失ったヒトとして育ちたい欲求が膨らみ続けている結果のように感じます。


赤ちゃんは成果などが求められ、発達成長しているわけではありません。
また人間としての作法を教え込まれることで、発達成長しているわけでもありません。
無駄に動き、無駄に触り、無駄に遊ぶことで、ヒトとしての土台を培っていく。
ですから、早期療育なんて百害あって一利なし。
彼らは徹底的に無駄を無くし、家ではできない、ここでしか、私達専門家しかできない支援をやろうと動いているのですから。
そうしなきゃ、お金(税金)は貰えませんので。


発達が遅れているから、あれもしよう、これもしよう、は逆効果です。
むしろ、発達が遅れているからこそ、赤ちゃん時代のような環境、時間にとらわれない自由で無駄な時間が必要なのです。
なので、成果が先にある夏休みの計画は大概失敗します(笑)
「感覚に遅れがあってそこを育てたいから、キャンプをしよう」は、家族がイライラする元です。
あそこのキャンプに行ったら楽しそう、だから行く。
行ってみたら、たくさん遊べて良かった。
で、帰って来たら、こんな変化があった。
これが自然なヒトが育つ姿です。


祭りを楽しむのは、人それぞれ。
だけれども、祭り自体が開催されなければ、ヒトに戻る機会、ヒトとして育つ機会が失われる。
だから、大人は祭りを開催するための準備と、子ども達が思いっきり楽しめる環境を用意する。
私は祭りのような非日常的な時間、成果から解き放たれた無駄な時間にこそ、ヒトとしての発達が起きる可能性があるのだと考えています。
発達のヌケは育てようと思って育てるのではなく、自由に育てられる環境の中で過ごしていたら自然と育っていた、というものだと思うのです。




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