自分のものさし、他人のものさし

私は子どもの頃から「頑張ってるね」と言われるのが嫌でした。
なんだか、自分の力の範囲を他人に決められているような気がしたからです。
「頑張ってる」は、言った人のものさしであり、見え方でしかありません。
実際、自分では頑張っているつもりはなくても、そう言われることがありました。
だから私は、「頑張ってるね」と言われると、「まだまだこんなものじゃない」と次へと進むエネルギーに変えていました。


大人になって私も落ち着いてくると、「頑張ってるね」と言う人を深く見るようになりました。
社交辞令のように言っている人もいれば、「こういえば相手は喜ぶだろう」と思って言っている人もいました。
自分のものさしで言っている人もいて、そういった人は自分自身の上限を決めているような人に見えてきました。


「頑張ってるね」と言う人の多くに悪意はなく、むしろ善意で言っていることが多いと感じます。
でも、この仕事をするようになって、「頑張ってるね」は注意して使わなければならない言葉だと思うようになりました。


私のように、「頑張ってるね」と言われて反発できるような人は良いと思います。
しかし、主体性が育っていない人、他人軸で生きている人、内部感覚に乏しい人は、「頑張ってるね」が自己規定になってしまう危険性があります。
「私からあなたは頑張っているように見える」という意味が、「これがあなたが頑張っている状態です」と変換されることもあるのです。
もしかしたら、その人の可能性はまだ先にあるかもしれないのに、もう一歩頑張れれば、一回り大きくなった自分に会えたかもしれないのに、他人のものさしを自分のものさしにしてしまう危険性…。


子ども達には、頑張ることの大切さと、頑張れる自分を誇りに思える心を育んでほしいと思っています。
他人から「頑張ってるね」と言われて頑張るのではなく、頑張る自分が好きだから頑張れる人です。
ですから、私は上記のような成長途中の子には注意して言葉を使います。
ただ「頑張ってるね」ではなく、「私には、〇〇くんが頑張っているように見える」と言います。
そして、「〇〇くんはどう思う?」と、自分自身の感覚に注意を向けるよう導きます。
まだできそうな気がするのか、もういっぱいいっぱいの状態なのか、そういった自分の感覚が主体的に生きていくには必要だと思います。


もう少し頑張れそうな気がするのなら、その頑張ろうとする気持ち、行動をそっと後押しする。
もう頑張れなさそうな気がするのなら、力を出し切る心地良さ、達成感を味わってもらう。
そういった他人の主観と主体を犯さない援助を心掛けています。
知らず知らずのうちに、子どもの可能性を限定する言葉を使っていることがありますので、特に主体性、自分軸、内部感覚を育てている最中の子に言葉をかける場合には、言葉に乗せて自分のものさしを渡していないか想像することが大切だと思っています。

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