【No.1027】訪問時、ノートをとらなくなったわけ

いつの頃か、発達相談中のノートテイクはやらなくなったんですね。
この前、「大久保さんは、ノートとらないんですか!?」と驚かれ、そういえば、いつからだったかな、と思ってました。
起業当初は、「できるだけ書きこめるように」と、1ページが大きなノートを買って、持ち歩いていたんですが、それが、「そんなに書きこまないな」「もっと手軽に持ち運べるものがいいな」と、どんどんノートが小さくなり、今はポケットサイズのノートをメモ代わりに使っているだけ。
もう、対面している間には、ノートを出すことはなくなりました。


どうしてノートをとらなくなったかと思い返すと、心境の変化があったのかな、と思います。
相談内容や気がついたことをノートいっぱい書いていた頃は、どこか頭の隅に後日お渡しする報告書があったり。
それに、書き記したノートを眺めながら、そこで自分の頭を整理しながら、相談に対する答えを出そうなんて思っていたり。
でも、これって、対面する意味がないというか、意義がないというか。
せっかく、場と時間を共有しているのに、私の頭は未来に行ったり、時間を止めたりしていたんですね。
あるとき、思ったんです。
わざわざ家庭に出向く意味ないよな、って。


そこから、もやもやしている時期があって、もう一度、どうして私が訪問支援、家庭支援にこだわるのか、そこを仕事の中核にしているのか、考えたんです。
私がやりたかったのは、知識や技能の伝達ではない、一方的に何かを与えたいんじゃない。
そんなことがやりたくて、わざわざ起業したわけじゃないんです。
それがやりたいのなら、既存の枠組み、組織を使えばいい。
時間という概念をとっぱらい、時間を忘れるくらい、その子の発達をご家族と一緒に考えぬきたい。
そうか、私はとことんその子の発達と向き合いたいんだと気づくのです。


時間を忘れて、発達相談、援助を行っているときがあります。
そういったときは、あっという間に、時間が過ぎている、という感じです。
当然、ノートをとることなんて忘れています。
ノートをとらず、さようなら、が続いたとき、「帰ってから、報告書が書けるかな」と心配でした。
でも、仕事場でパソコンを開くと、結構覚えている。
まあ、覚えているというよりも、そのときの映像、雰囲気、感情までも、今、リアルに感じるわけです。
「これって何だろうな」と思っていたら、「そうか、これこそが場と時間を共有することだな」と気が付いた。


場と時間を共有するっていうのは、相手のご家族だけではなく、私自身も一体化するってこと。
家族にとっては、私は他人であり、外部からの刺激。
その外部刺激が、家族に、家族の子育ての中にとり込まれ、訪問前とは違った形に変化していく。
ああ、これこそが、訪問支援の意義。
私は、本人や家族がより良く変化するための外部刺激になり、ちゃんととり込まれることが役割なんだと思うんです。


私が、その家族の一部になり得たとき、私にも変化が生じる。
たぶん、知識や技能の伝達では、こういった変化は生じないでしょう。
私も、家族の一部になったとき、その家族からの刺激を受け取る。
それが、私の内側で化学反応を起こし、支援者としての気づき、感覚、視点を向上させる。
そういえば、この仕事を続ける中で、訪問する家庭が増える中で、支援者の嗅覚、直感が磨かれたような気がしています。
コトバで磨く部分と、コトバ以外で磨く部分の違い。


場と時間をしっかり共有できたら、私がちゃんと採り入れられ、同化できたのなら、あとから思い返すことはなんでもない。
思い返さずとも、私の中にも採り込まれているから、報告書に書き写すことができる。
出張で数日間、函館を離れても、パソコンを開けば、その場と時間が現れる。
だから、基本的に1回の訪問で完了となるんだと思います。
だって訪問後も、その後の流れ、発達が見えているから。


「発達相談」と銘打っていますが、相談する側と相談される側では、うまくいかないな、と思います。
どちらかが一方的に変えようとしても、変わろうとしても、それは真の意味で支援になり得ないんです。
やっぱり、「あなたも変わるし、私も変わる」が理想だといえます。
お互い対面し、臨場感を持って、何かをなそうとするから、私で言えば、「より良い発達」「より良い未来」を成し遂げようとすれば、私自身も良い方向へ進む必要がある。
発達も、未来も、本人の内側に端をなすものだから、私の内側にも変化を感じなければなりません。
玄関の扉を閉めたとき、「あー、自分も変わった気がする」、そんな風に思えたら、意味のある仕事、支援者としての役割が果たせたのかな、と思うのです。


良い家族だな、素晴らしい家族だな、と感じるご家庭は、その子だけが変化するのではなく、家族みんなで、家族一緒に、変化している雰囲気がありますね。
私が良く使う言葉に、「育み合い」というのがあります。
そうです、「子を育てよう!」ではなく、「子を育てよう。そして私も育てられよう」という感じ。
子を育てるということは、親自身も育てられるということ。
そのためには、子の内側に刺激の一つとして採り込まれ、また自分の内側にも採りこむ。


コトバは文化ですから、受け渡し。
でも、発達はコトバ以前の話ですから、親子の伝達ではなく、吸収同化です。
家族間で一体化、吸収同化がうまくいっている場合は、私のような支援者、外部刺激が入ってきても、ちゃんと採りこむことができます。
でも、それがうまくいっていなければ、支援者に侵略され、染まってしまう。
それは支援ではなく、洗脳です。
洗脳はコトバで行われ、支援はコトバ以前で行われる。
ですから、今後も、セッション中、私はノートをとることはないと思います。
再びノートをとるようになったときは、支援者として終わったとき。

コメント

このブログの人気の投稿

【No.1358】体軸が育つ前の子と、育った後の子

【No.1364】『療育整体』を読んで

【No.1370】それを対症療法にするか、根本療法にするかは、受け手側の問題