【No.1024】この“今”というときを、より良い未来のために
後日、手紙やメールを頂戴することがあって、今日も一通届いていました。
「新型コロナ、大丈夫ですか?」というお気づかいと共に、「今は、心から子育てが楽しい。我が子が愛おしいと思えるようになりました」と記されていました。
本当にうれしいですね。
この仕事を起ち上げて良かったと思いますね。
私の仕事は、発達障害を治すことではありませんし、親御さんにとっても、子育ての目的は治すことにはなりません。
「何故、治すのか」といえば、その子の未来をより良くするためであって、そこには「自立」と「自由」と「選択」がより良いものへとなるような願いがあります。
究極でいえば、ゴールはその子が幸せになること。
その手段、方法の一つとして“治る”があるし、親御さんには“治す”がある。
ひと家庭ずつ、訪問し、時間と場を共有し、じっくり子育てについて考える仕事ですから、我が子に幸せになってほしいと思う親御さんも、幸せを感じてもらうというのが、この事業の意義、存在理由だと思います。
事業を起ち上げてから、もうすぐで丸7年が終わろうとしています。
開業当初より、親御さんの中には、「子育てが楽しいと思えない」「私は子どものことが好きではないのかもしれない」「正直、我が子を愛おしいと思ったことがない」、そんな心のうちを話してくださる人達が少なくありませんでした。
私は最初、家庭内の孤立や共働きによる余裕の無さ、子や兄弟が減ったことによる体験不足など表面的な捉え方をしていたんですね。
今、振り返ると、本当に薄っぺらい、リアルのない捉えです。
でも、ずっと、このような親御さんの生の声に耳を傾けてきますと、子育てが楽しいと思えないのではなくて、「楽しいとは思ってはいけない」「愛おしいなんか、軽々しく言ってはいけない」、そんな自分で自分を否定するような、ストッパーをかけているような、雰囲気、本当の姿が見えるようになってきたんです。
中には、その背中に、十字架を背負っているかのような姿すら感じる方もいました。
親御さん達は、何を背負っているのか。
それは、私には理解することも、「わかります」なんて言葉を発することもできない、とてもプライベートな感情だと感じます。
雰囲気から感じることですが、どの親御さんも、多かれ少なかれ、後悔の念をお持ちになっている。
小田和正ではありませんが、「あの日、あのとき、あの場所で」という後悔。
心のどこかには、常に「私があのとき、そうしなければ」という想いがあって、その想いが今の我が子の発達障害と繋がっている。
最近では、「私がしっかり栄養を摂っていれば」「私が妊娠中、無理しなければ」「すぐに立ったとき、もう少しハイハイをやらしておけば」「赤ちゃんのとき、スマホを与えなければ」と、後悔がよりリアルになっている気がします。
発達障害が先天的とはいえなくなった現在。
むしろ、後天的な要因によって、遺伝子にスイッチが入ることが明らかになってきた現在においては、「ゆえに治り、ゆえに苦しむ」という二つの側面と向き合う必要があるようになってしまった。
希望であり、後悔。
治り方、治し方が分かるということは、心の奥にしまい込んでいた後悔の扉をも開く結果となるのかもしれませんね。
発達相談でお話ししていると、涙を流される親御さんが少なくありません。
私も、お子さんの雰囲気から、発達の流れ、物語を紡いでいければ良いんですけど、まだまだ自信がない。
だから、どうしても、発達の始まりを聞きたくなります。
一つずつ辿っていき、ああ、ここから本来の流れからのズレが起きたのね、と答え合わせするような一流になれない自分の腕を悔いつつ、仕事をするんです。
親御さんの流す涙に、同情も、理解も、する資格は持ち併せていません。
「そんなことはないですよ」とも、「そうですね」とも言えず、涙が流れ切るのを待つくらいしか、私にできることはありません。
でも、次の瞬間、私達は先に進まなければならないのです。
私も、親御さんも、過去のために生きるのではなく、子の未来のために生きるから。
見ず知らずの私が、あるご家庭の、あるご家族の時間、場の共有を許されるのは、「未来を良くする」、ただ一点のみなのです。
成人の人達は良くこう言います。
「治ってから、社会に出る」「治れば、社会に出られる」
でも、実際、治っている大人たちは、そうじゃない。
みんな、治りかけで社会に出ていく。
つまり、治った部分と治らない部分を持ち併せて、社会に出ていくのです。
別の言い方をすれば、「まだ治るよ」という余地を持って出ていくということ。
治る余白を持って社会に出ていく姿には、ワクワク感が漂ってますね。
治る仕上げの部分は、社会が担ってくれると私は思っていますし、そういった余白がある方が、治り切るまで自分の歩を進められるんだと思うんです。
親子の話に戻れば、治すための子育てをしているうちは、子育てを楽しいとも、我が子を心から愛おしいとも、思えないような気がします。
やっぱりどこかで、お子さんはそれに気が付いていて、伸びやかさに違いが感じ取れたりします。
まだ治すところがあるけれども、同年齢の中に飛びこみ、そこで心身を解放できている子がいて、一方で、ほとんどが治ったんだけれども、同年齢の中へはちょっと、という子がいる。
私の印象では、子どもらしさの違い。
子どもらしさの内側に発達の課題があるか、発達の課題の内側に子どもらしさを感じるか。
私は発達相談の中で、「もう治すための子育ては終了ですね」というお話をすることがあります。
それは、もう家庭で治す部分は完了し、あとは同年齢の中で、学校や保育園、コミュニティの中で、子どもさんが自分自身で治していくところまで来ましたね、という合図です。
成人した人達と同じように、やっぱり最後の「治り」は、本人の手に委ねられ、社会との相互作用の中で完成をみると思うのです。
同時に私は、その言葉の雰囲気の中に、親御さんへの想いを折り込んでいるんです。
もう後ろではなく、前を向いて、子育てを、今、この家族でいる時間を楽しみましょう、と。
いろんな要因があり、発達に本来とは異なるズレが生じた。
私達が見えている要因は、その一部ですし、その一部が正しいかといえば、確かめようがないのです。
それこそ、ある親御さんは、我が子が自立するまで、幸せになるまで、「後悔の念は消えない」と仰っていました。
もちろん、その考えに、私がとやかく申し上げる資格も、理由も、ございません。
だけれども、いろんな家族、親子を見てきたからこそ、私は伝えたいことがある。
それは、成人した我が子を持つ親御さん達の想い。
「この子が子どもだった頃、私がもっと子育てを楽しめたら、と後悔する」という言葉。
いつしか、「障害を持った我が子を…」というよりも、子ども時代を、短い子育ての時間を心から楽しめなかった後悔が勝るときがくるのかもしれない、と私は感じるのです。
ですから、子育て真っ最中の親御さん達には、お子さんが最後の部分を自分で治り切るためにも、お子さんが伸びやかに子どもらしく短い子ども時代を過ごせるようになるためにも、そして親御さんご自身が将来の後悔を残さないためにも、未来を見据え、今を楽しむことの大切さをお伝えしたいです。
「愛おしい」「愛おしい」といつも書かれている方がいました。
でも、その「愛おしい」という文字には、自分に言い聞かせている姿がみえたのです。
実際にお会いし、「愛おしいと思えない」という心の声をお聞きしたのが、昨年のこと。
それから一年が経ち、いただいた手紙には、「初めて我が子が愛おしいと思った」という文字。
ご家族そろった写真の中には、愛おしさが溢れていました。
春からは、同年齢と一緒の幼稚園へ。
就学までに、お子さん自身で、子ども同士の関わり合い、育ちあいの中で、最後の「治った!」の仕上げをされていくと思います。
「新型コロナ、大丈夫ですか?」というお気づかいと共に、「今は、心から子育てが楽しい。我が子が愛おしいと思えるようになりました」と記されていました。
本当にうれしいですね。
この仕事を起ち上げて良かったと思いますね。
私の仕事は、発達障害を治すことではありませんし、親御さんにとっても、子育ての目的は治すことにはなりません。
「何故、治すのか」といえば、その子の未来をより良くするためであって、そこには「自立」と「自由」と「選択」がより良いものへとなるような願いがあります。
究極でいえば、ゴールはその子が幸せになること。
その手段、方法の一つとして“治る”があるし、親御さんには“治す”がある。
ひと家庭ずつ、訪問し、時間と場を共有し、じっくり子育てについて考える仕事ですから、我が子に幸せになってほしいと思う親御さんも、幸せを感じてもらうというのが、この事業の意義、存在理由だと思います。
事業を起ち上げてから、もうすぐで丸7年が終わろうとしています。
開業当初より、親御さんの中には、「子育てが楽しいと思えない」「私は子どものことが好きではないのかもしれない」「正直、我が子を愛おしいと思ったことがない」、そんな心のうちを話してくださる人達が少なくありませんでした。
私は最初、家庭内の孤立や共働きによる余裕の無さ、子や兄弟が減ったことによる体験不足など表面的な捉え方をしていたんですね。
今、振り返ると、本当に薄っぺらい、リアルのない捉えです。
でも、ずっと、このような親御さんの生の声に耳を傾けてきますと、子育てが楽しいと思えないのではなくて、「楽しいとは思ってはいけない」「愛おしいなんか、軽々しく言ってはいけない」、そんな自分で自分を否定するような、ストッパーをかけているような、雰囲気、本当の姿が見えるようになってきたんです。
中には、その背中に、十字架を背負っているかのような姿すら感じる方もいました。
親御さん達は、何を背負っているのか。
それは、私には理解することも、「わかります」なんて言葉を発することもできない、とてもプライベートな感情だと感じます。
雰囲気から感じることですが、どの親御さんも、多かれ少なかれ、後悔の念をお持ちになっている。
小田和正ではありませんが、「あの日、あのとき、あの場所で」という後悔。
心のどこかには、常に「私があのとき、そうしなければ」という想いがあって、その想いが今の我が子の発達障害と繋がっている。
最近では、「私がしっかり栄養を摂っていれば」「私が妊娠中、無理しなければ」「すぐに立ったとき、もう少しハイハイをやらしておけば」「赤ちゃんのとき、スマホを与えなければ」と、後悔がよりリアルになっている気がします。
発達障害が先天的とはいえなくなった現在。
むしろ、後天的な要因によって、遺伝子にスイッチが入ることが明らかになってきた現在においては、「ゆえに治り、ゆえに苦しむ」という二つの側面と向き合う必要があるようになってしまった。
希望であり、後悔。
治り方、治し方が分かるということは、心の奥にしまい込んでいた後悔の扉をも開く結果となるのかもしれませんね。
発達相談でお話ししていると、涙を流される親御さんが少なくありません。
私も、お子さんの雰囲気から、発達の流れ、物語を紡いでいければ良いんですけど、まだまだ自信がない。
だから、どうしても、発達の始まりを聞きたくなります。
一つずつ辿っていき、ああ、ここから本来の流れからのズレが起きたのね、と答え合わせするような一流になれない自分の腕を悔いつつ、仕事をするんです。
親御さんの流す涙に、同情も、理解も、する資格は持ち併せていません。
「そんなことはないですよ」とも、「そうですね」とも言えず、涙が流れ切るのを待つくらいしか、私にできることはありません。
でも、次の瞬間、私達は先に進まなければならないのです。
私も、親御さんも、過去のために生きるのではなく、子の未来のために生きるから。
見ず知らずの私が、あるご家庭の、あるご家族の時間、場の共有を許されるのは、「未来を良くする」、ただ一点のみなのです。
成人の人達は良くこう言います。
「治ってから、社会に出る」「治れば、社会に出られる」
でも、実際、治っている大人たちは、そうじゃない。
みんな、治りかけで社会に出ていく。
つまり、治った部分と治らない部分を持ち併せて、社会に出ていくのです。
別の言い方をすれば、「まだ治るよ」という余地を持って出ていくということ。
治る余白を持って社会に出ていく姿には、ワクワク感が漂ってますね。
治る仕上げの部分は、社会が担ってくれると私は思っていますし、そういった余白がある方が、治り切るまで自分の歩を進められるんだと思うんです。
親子の話に戻れば、治すための子育てをしているうちは、子育てを楽しいとも、我が子を心から愛おしいとも、思えないような気がします。
やっぱりどこかで、お子さんはそれに気が付いていて、伸びやかさに違いが感じ取れたりします。
まだ治すところがあるけれども、同年齢の中に飛びこみ、そこで心身を解放できている子がいて、一方で、ほとんどが治ったんだけれども、同年齢の中へはちょっと、という子がいる。
私の印象では、子どもらしさの違い。
子どもらしさの内側に発達の課題があるか、発達の課題の内側に子どもらしさを感じるか。
私は発達相談の中で、「もう治すための子育ては終了ですね」というお話をすることがあります。
それは、もう家庭で治す部分は完了し、あとは同年齢の中で、学校や保育園、コミュニティの中で、子どもさんが自分自身で治していくところまで来ましたね、という合図です。
成人した人達と同じように、やっぱり最後の「治り」は、本人の手に委ねられ、社会との相互作用の中で完成をみると思うのです。
同時に私は、その言葉の雰囲気の中に、親御さんへの想いを折り込んでいるんです。
もう後ろではなく、前を向いて、子育てを、今、この家族でいる時間を楽しみましょう、と。
いろんな要因があり、発達に本来とは異なるズレが生じた。
私達が見えている要因は、その一部ですし、その一部が正しいかといえば、確かめようがないのです。
それこそ、ある親御さんは、我が子が自立するまで、幸せになるまで、「後悔の念は消えない」と仰っていました。
もちろん、その考えに、私がとやかく申し上げる資格も、理由も、ございません。
だけれども、いろんな家族、親子を見てきたからこそ、私は伝えたいことがある。
それは、成人した我が子を持つ親御さん達の想い。
「この子が子どもだった頃、私がもっと子育てを楽しめたら、と後悔する」という言葉。
いつしか、「障害を持った我が子を…」というよりも、子ども時代を、短い子育ての時間を心から楽しめなかった後悔が勝るときがくるのかもしれない、と私は感じるのです。
ですから、子育て真っ最中の親御さん達には、お子さんが最後の部分を自分で治り切るためにも、お子さんが伸びやかに子どもらしく短い子ども時代を過ごせるようになるためにも、そして親御さんご自身が将来の後悔を残さないためにも、未来を見据え、今を楽しむことの大切さをお伝えしたいです。
「愛おしい」「愛おしい」といつも書かれている方がいました。
でも、その「愛おしい」という文字には、自分に言い聞かせている姿がみえたのです。
実際にお会いし、「愛おしいと思えない」という心の声をお聞きしたのが、昨年のこと。
それから一年が経ち、いただいた手紙には、「初めて我が子が愛おしいと思った」という文字。
ご家族そろった写真の中には、愛おしさが溢れていました。
春からは、同年齢と一緒の幼稚園へ。
就学までに、お子さん自身で、子ども同士の関わり合い、育ちあいの中で、最後の「治った!」の仕上げをされていくと思います。
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