2019年5月21日火曜日

侵食する自閉症の概念

「生涯に渡る支援が必要」だと告げられた人が、「その症状は、障害特性だから。治るとかの次元じゃないから」と告げられた人が、その告知を覆すように治っていく。
そうすると、決まって偽物説が出てきます。
私は、その様子を見聞きし、いつも怒っています。
そうやって本人には、より良くなるための可能性があったのに、それ自体を否定した人間がいたことに。
そして何よりも、まず先に口から出てこなかった「良かったね」の一言に対して。


悩みを抱えている人が目の前にいる。
その悩みを抱えている人をサポートする仕事を私はしている。
だったら、人工的な、便宜上の診断基準に乗っかるかどうかよりも、目の前の人が喜んでいれば、今までよりも良い方向へ進んでいけるのなら、心から「良かったね」「私も嬉しいよ」という言葉が出てくると思うのです。
エビデンスや診断基準のために仕事をしているのではないでしょう。
そういったものを守るために、目の前にいる人が良くなっていく姿を共に喜べないのなら、そもそも人を支援する仕事に適していないのだと思います。


どんな方法でも、私が直接関わりのない人でも、「良くなった」「治った」という話を聞けば、嬉しくなりますし、それ自体が励みにもなります。
世の中に良くなった人がいて、治った人がいる。
それだけで、私が関わらせてもらっている人達も、同じように可能性があるのだと思えるのです。
だからこそ、ますます関わっている人達が良くなるように、治るように、自分も頑張ろうという意欲が湧いてきます。


時折、私が関わった人で「治った」というと、冒頭のように「もともと違った」「偽物だった」という人がいます。
しかし、私に対するその言葉は、褒め言葉だと感じています。
だって、「治る」は肯定しなかったとしても、良くなったことは認められているのだから。
私にとっては、目の前にいる人が本物(?)でも、偽物(?)でも、どうでもよいのです。
「一年前より良くなったね」「〇〇ができるようになったね」「この部分はとても成長したね」
それだけで、私が果たす役割は十分なのですから。


極端なことを言えば、治った人は、みんな偽物で良いと思います。
偽物をどんどん治していけば良いのですから。
そして何よりも、自分たちが言う偽物すら治せない人よりも、ずっと良い。
本当は偽物で、治る可能性がある人までをも、塩漬けにし、鳥籠に押し込め、生涯に渡る支援の名の元に、他人によって人生を消費されてしまうよりも。


真面目な話として、相談者の傾向、全国的な雰囲気から、自閉症の概念が都合の良いように利用されている感じがします。
どう見ても、その子は現時点で「発達に遅れのある子」=「発達障害の子」だったはずなのに、自閉症の概念(ときにADHDやLDなども)が利用され、あたかも、現時点での遅れに伴う困難が、生涯変わらない固定化されたものであるかのごとく、それ自体がその子の特性であるかのごとく、語られたり、告げられたりしている状況。


確かに自閉症者に多く見られるような視覚的な情報処理などは、未発達というよりも、脳みその使い方、特性に近い気がします。
でも、言葉による説明や指示が通らないのは、視覚的な情報処理というよりも、耳が育っていないからかもしれないし、その前の前庭や三半規管が育っていないからかもしれない。
または、過剰なメディア刺激による神経伝達物質の問題が根っこにあるかもしれない。
それなのに、年端もいかない子どもさんに対し、原因を確認することなく、ざっくり「発達障害」と言ってしまう。
しかも、その「発達障害」も、「現時点で発達の遅れが見られますよ」ではなく、ここだけ都合の良いように自閉症の特性かのごとく、「生涯変わらない」なんて言い放ってしまう。


本来、生涯変わらないような、揺るがないような特性、資質というものは、あらゆる発達が生じた上に表れるものです。
まだ育てていないし、育っていない、成長していない部分が多々あるのに、どうして、ある一部分だけを取り出して、それが特性だ、個性だ、資質だ、と言えるのでしょうか。
それこそ、それは「あなたの主観でしょ」の次元だと思います。


主観が入る余地のある診断基準を使っている限り、こういった問題はなくならないと思います。
私の印象ですが、相当数、治るはずの子ども達、未発達が原因で今、困った症状が出ている子ども達がいるように感じます。
そしてはっきり言えるのが、まだ育てていないし、育ちきっていない子ども達の可能性が否定されている現実があるということです。


診断名をつけるには早すぎる子ども達が、「発達障害」という診断名を受けている現実。
しかも、その発達障害というのが、意図的か否かはさておき、自閉症の概念に侵食され、染まってしまっている現実。
そういった中で、子育てをされる親御さん達は、早々に諦めることを余儀なくされる。


支援者というのは、諦めそうになった本人を、親御さんを、「一緒に頑張りましょうよ」「諦めるのは早いですよ」と励まし、背中を押していくのが役割なはずです。
それなのに、年端もいかない子どもに対し診断名を付け、あたかも、それ自体が生涯変わらないかのごとく、印象を与えてしまう。
挙句の果てには、自分と関わりのない他に治った子がいれば、「偽物だった」「誤診だった」とさらに終始、可能性を否定する。


治った人が偽物だったのなら、「偽物は全員治す」という方向へ進むのならまだしも、現実は醜い状況だといえます。
少なくとも、育っていく可能性がある子、未発達の部分が発達していくことにより、症状や課題がなくなっていく子も、過剰に診断されている現実があります。
ですから私は、私のところにいらっしゃる皆さんは、「育つ可能性のある人」「治る可能性のある人」だと思って、関わっています。
何故なら、その人の可能性を信じられない人は、支援者という仕事をやってはいかないと考えているから。
本人が、家族が諦める前に、諦めるわけにはいかないのです。

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