土台の発達が満たされた結果、次の発達が始まる
身辺自立の遅れや運動発達の遅れは、どちらかと言えば、周囲の対応が遅くなりがちです。
お漏らしやおねしょは、小学校に上がってもしている子はいますし、幼児の場合は親が、大人がささっと対応してしまえば、大事になることはありません。
同様に、「運動が苦手」「手が不器用」に関しても、個性の範疇に見られがちです。
しかし、言葉の遅れは異なります。
やっぱり、どこかで、「言葉が遅いのは、この子の個性」と思うには難しくなる時期がきます。
だからこそ、相談でいらっしゃるご家族の半分くらいは、「言葉の遅れ」に関することです。
「言葉の遅れ」に関して、家庭で何も気にせず、何もせず、ということはありません。
皆さん、読み聞かせを一生懸命やられたり、「〇〇ちょうだいは?」などの促しをやられたりしています。
当然、身近な方たちから助言も貰っていて、「いっぱい話しかけたらいい」ですとか、「顔を見合わせて口の動きを見せたらいい」ですとか、言葉が出るような促しをされています。
でも、なかなか思うような変化が見られないから、相談に至るという場合が多いといえます。
当然、言葉の遅れですから、言葉や音声、口に注目が行きがちです。
私も、若手の頃は、同じように思っていましたし、支援の方向性もそのようなものでした。
でも、いろんな方達と関わらせてもらう中で、言葉の遅れに言葉で対応しても、なかなかうまくいかない、ということに気が付きました。
むしろ、言葉ばかりに注目するのではなく、それ以外の部分、発達こそが言葉、発語につながると考えるようになったのです。
主に施設で働いていたときですが、自閉症の特性だけではなく、知的障害の程度も大変重い方達と関わってきました。
確かに、身辺自立に関しても、身につく年齢が高かったり、身につくまでの支援や練習の回数、年数が長かったりすることがありますが、大人になっても未自立、まったく身につかない、という方はほとんどいませんでした。
発語はなかったけれども、教科学習などは困難だったけれども、ちゃんとトイレで排泄し、ちゃんと自分でごはんを食べ、夜になったら自分で寝ている人はたくさんいました。
しかし、発語はあるけれども、身辺自立がまったくできていない人はいませんでした。
発語がある人は、身辺自立もできている。
つまり、何が言いたいかといいますと、発達の流れから言えば、感覚や内臓の育ち、運動の育ちが言葉の発達よりも先ということ。
別の言い方をすれば、こういった発達が土台となり、言葉の発達が促されていくということです。
ですから、「言葉が遅れているから」と言って、言葉ばかりに注目しても、発達が促されない可能性が高いといえます。
もし、言葉の遅れがあるのなら、「言葉の土台となる部分に、発達のヌケや遅れがないかな?」と思うことが大切なのかもしれません。
近頃、私は「言葉の発達は結果」だと考えるようになりました。
「言葉を獲得する」などの表現から、何かヒト特有の一つの能力、スキルのような印象を受けますが、そうじゃなくて、いろんな土台となる発達が満たされてきた結果として、少しずつ言葉、言語が発達し始めるのではないか、と思います。
言葉の発達に限りませんが、何か気になる部分があって、そこにばかり注目していると、そこばかり育てようとすると、却ってうまくいかないことが多いような気がします。
そういった姿を日々、見ていますと、ヒトの能力を一つ切り取って考えること自体が不自然だと思うのです。
何か部分的に育てようとしても不可能なことが多いです。
何故なら、一つの能力が一つの活動とのみ、繋がっているわけではないから。
一つの活動の背景には、いろんな能力があり、様々な発達の土台の上に成り立っている。
なので、一つ発達のヌケが埋まれば、ある部分の発達の遅れが育てば、ほかの部分でも良い発達、全体的な成長が表れるのだといえます。
「治しやすいところから治す」というのは、一見すると、課題となる部分に直接的ではなく、遠回りのような感じがすることもあります。
しかし、一つでも治ると、そこと繋がっている部分が連動して改善し、治っていくことがあります。
たとえば、しっかり寝られるようになれば、疲れを翌日に持ち越すことが少なくなり、その分、脳に余裕が生まれるかもしれません。
その脳の余裕が、新しいスキルや学習、発達へと繋がる可能性は十分にあります。
ですから、ちゃんと寝られるようになることが、言葉の発達につながることもある。
このように、ある発達は、別の発達の土台となり、それと影響し合うことがあります。
発達とは、独立して起こるのではなく、いろんな発達との結びつきの結果だと思います。
「言語発達は、スキルの獲得ではなく、土台となる発達が満たされた結果である」
そう考えると、言葉ばかりに注目することなく、同時に一喜一憂することもなく、もう少し余裕を持って子育てができるかもしれません。
「発語の準備が整っているかな?」という視点も育みの糸口になると、私は考え、日々接しています。
ヒトは部分的にではなく、全体的に発達するものですから。
お漏らしやおねしょは、小学校に上がってもしている子はいますし、幼児の場合は親が、大人がささっと対応してしまえば、大事になることはありません。
同様に、「運動が苦手」「手が不器用」に関しても、個性の範疇に見られがちです。
しかし、言葉の遅れは異なります。
やっぱり、どこかで、「言葉が遅いのは、この子の個性」と思うには難しくなる時期がきます。
だからこそ、相談でいらっしゃるご家族の半分くらいは、「言葉の遅れ」に関することです。
「言葉の遅れ」に関して、家庭で何も気にせず、何もせず、ということはありません。
皆さん、読み聞かせを一生懸命やられたり、「〇〇ちょうだいは?」などの促しをやられたりしています。
当然、身近な方たちから助言も貰っていて、「いっぱい話しかけたらいい」ですとか、「顔を見合わせて口の動きを見せたらいい」ですとか、言葉が出るような促しをされています。
でも、なかなか思うような変化が見られないから、相談に至るという場合が多いといえます。
当然、言葉の遅れですから、言葉や音声、口に注目が行きがちです。
私も、若手の頃は、同じように思っていましたし、支援の方向性もそのようなものでした。
でも、いろんな方達と関わらせてもらう中で、言葉の遅れに言葉で対応しても、なかなかうまくいかない、ということに気が付きました。
むしろ、言葉ばかりに注目するのではなく、それ以外の部分、発達こそが言葉、発語につながると考えるようになったのです。
主に施設で働いていたときですが、自閉症の特性だけではなく、知的障害の程度も大変重い方達と関わってきました。
確かに、身辺自立に関しても、身につく年齢が高かったり、身につくまでの支援や練習の回数、年数が長かったりすることがありますが、大人になっても未自立、まったく身につかない、という方はほとんどいませんでした。
発語はなかったけれども、教科学習などは困難だったけれども、ちゃんとトイレで排泄し、ちゃんと自分でごはんを食べ、夜になったら自分で寝ている人はたくさんいました。
しかし、発語はあるけれども、身辺自立がまったくできていない人はいませんでした。
発語がある人は、身辺自立もできている。
つまり、何が言いたいかといいますと、発達の流れから言えば、感覚や内臓の育ち、運動の育ちが言葉の発達よりも先ということ。
別の言い方をすれば、こういった発達が土台となり、言葉の発達が促されていくということです。
ですから、「言葉が遅れているから」と言って、言葉ばかりに注目しても、発達が促されない可能性が高いといえます。
もし、言葉の遅れがあるのなら、「言葉の土台となる部分に、発達のヌケや遅れがないかな?」と思うことが大切なのかもしれません。
近頃、私は「言葉の発達は結果」だと考えるようになりました。
「言葉を獲得する」などの表現から、何かヒト特有の一つの能力、スキルのような印象を受けますが、そうじゃなくて、いろんな土台となる発達が満たされてきた結果として、少しずつ言葉、言語が発達し始めるのではないか、と思います。
言葉の発達に限りませんが、何か気になる部分があって、そこにばかり注目していると、そこばかり育てようとすると、却ってうまくいかないことが多いような気がします。
そういった姿を日々、見ていますと、ヒトの能力を一つ切り取って考えること自体が不自然だと思うのです。
何か部分的に育てようとしても不可能なことが多いです。
何故なら、一つの能力が一つの活動とのみ、繋がっているわけではないから。
一つの活動の背景には、いろんな能力があり、様々な発達の土台の上に成り立っている。
なので、一つ発達のヌケが埋まれば、ある部分の発達の遅れが育てば、ほかの部分でも良い発達、全体的な成長が表れるのだといえます。
「治しやすいところから治す」というのは、一見すると、課題となる部分に直接的ではなく、遠回りのような感じがすることもあります。
しかし、一つでも治ると、そこと繋がっている部分が連動して改善し、治っていくことがあります。
たとえば、しっかり寝られるようになれば、疲れを翌日に持ち越すことが少なくなり、その分、脳に余裕が生まれるかもしれません。
その脳の余裕が、新しいスキルや学習、発達へと繋がる可能性は十分にあります。
ですから、ちゃんと寝られるようになることが、言葉の発達につながることもある。
このように、ある発達は、別の発達の土台となり、それと影響し合うことがあります。
発達とは、独立して起こるのではなく、いろんな発達との結びつきの結果だと思います。
「言語発達は、スキルの獲得ではなく、土台となる発達が満たされた結果である」
そう考えると、言葉ばかりに注目することなく、同時に一喜一憂することもなく、もう少し余裕を持って子育てができるかもしれません。
「発語の準備が整っているかな?」という視点も育みの糸口になると、私は考え、日々接しています。
ヒトは部分的にではなく、全体的に発達するものですから。
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