2019年5月6日月曜日

親次第で子は変わる

中学生の親御さんとお話したら、塾に行っている子と、いない子では、いない子の方が成績が良いということでした。
実は、以前にも同じことを学校の先生から聞いています。
塾に通っている子は、通っているだけで満足している。
その点、自宅で家庭学習をコツコツやっている子は、自分で考えること、自分で積み上げていくことの大切さを知っているから、きちんとした学力がついていく、と。


結局、中学生くらいになってから、「いざ、家庭学習」「いざ、自分で計画立てて勉強」といっても、できるようにはなりません。
ということは、もっと小さいときからの取り組みが大事。
小学生の頃から、親御さんが手をかけ、目をかけ、学ぶ姿勢を育んでいく。
最初からできるわけはないのですから、ある意味、親次第といえるのだと思います。
ちなみに、運動系の部活をやっている子の方が成績が伸びる、とも言っていました。
これは当然ですね。
神経は全身に張り巡らされているのですから。
考える土台は、神経の育ち。


こんな話をしていると、塾が児童デイに聞こえてきます。
児童デイに通わせていることだけで満足してしまう親御さん。
療育に通っていることだけで満足してしまう親御さん。
有名支援者とつながっていることだけで満足してしまう親御さん。
療育や児童デイにびっしり通っている子ほど、状態像が変わらないのは、支援者の腕もあるでしょうが、目的がはっきりしないまま、受け身的に通う、通わせていることに課題の根っこがあるような気もします。


発達障害になるのは、親御さんのせいではないかもしれないし、そもそも我が子が発達障害になってほしいなど、望む親御さんはいないでしょう。
しかし、なるのが親御さんのせいではなくても、その予後、発達、成長には大いに影響し、関係があるといえます。
だって、本人を抜かせば、一番側に存在する環境は親御さんだから。
神経の発達には、栄養と刺激が関係する。
その栄養を提供するのは(胎児期から)親御さんだし、一番の刺激も親御さん。


1970年代までは、両親のNICU(新生児特定集中治療室)への入室に厳しい制限がありました。
しかし、退院が近づいても子どもを連れて帰りたがらない親御さんや、退院後の育児放棄や虐待が多いことがわかり、それから徐々に親と子の関わりを重視する方向へと進んでいった経緯があります。
入所施設でも、最初は入所すら拒んでいた親御さんが、最初は毎週のように迎えに来ていた親御さんが、徐々に帰省が減り、数年後には連絡すらなくなる、ということは少なくありませんでした。
結局、いくら血縁があったとしても、受け身的な関わりでは、関わる時間が短くなれば、心身共に離れていくのは自然なことなのでしょう。


支援者の人から、「面接しても、親御さんが、子どもの長所や短所、特徴、好きなこと、嫌いなことなどが“わからない”と言うんです」といった相談を受けることがあります。
そりゃあ、幼少期から子育ての主体を、他人に預け続けていたら、「わからない」のは当然だといえます。
一緒に暮らしていたかもしれませんが、主体性を持って子育てを行ってこなかった。
我が子のことなのだから、自分の頭で考え、選択し、試行錯誤し、行動するのが子育ての基本。
だからこそ、「子育ての主体を奪い続ける現在の特別支援のせいですね」と、私は答えています。


まとめると、発達障害になるかは親御さんのせいとはいえないが、その予後、発達、成長は、本人次第、親御さん次第ということ。
特に、まだ選択や試行錯誤ができない子どものうちなら、もろ親御さんの選択や行動が影響するのは当たり前。
一生懸命試行錯誤して、その子に合った栄養と刺激を与え続けているのなら、その子は伸びていくのが自然な姿。
反対に、他人に任せっぱなしで、目の前の子を見ようとしない、その子に合った刺激、環境を用意しなければ、状態は変わらないだけではなく、固定化もされていく。
遅れを遅れのままにしておくから、どんどん遅れていき、その発達には凹凸ができていくのも自然な姿だといえます。


本来、子どもの予後、将来を決めるのは、幼少期、子ども時代の栄養であり、刺激であり、環境のはず。
たまにしか会わない専門家の言葉ではないのです。
そんな至極当たり前のことが、なんだかタブー視されている。
何故、全体的に頑張らない方向へ進もうとするのか、障害を障害のまま、遅れを遅れのままにして進もうとするのか、まったくもって意味不明。
「赤信号、みんなで渡れば、怖くない」レベル。
車が来て轢かれても、誰も責任はとってくれないのと同じように、子ども時代、関わってきた支援者達は、大人になった我が子の大きくなった凸凹、それまで感じ続けてきた生きづらさに責任をとってはくれない。


本来、支援者、専門家というのは、親御さんの養育力を高めるためにサポートするのが役割だったはずです。
それがいつの間にか、親御さんのラクをサポートするようになってしまった。
だから、支援者はベビーシッターになり、預ける人と預かる人の関係になってしまう。
その子の人生の始まりだからこそ、本当は親御さんに「お父さん、お母さんの育て方によって、この子はより良く発達するし、成長する。親御さん次第によって、この子の未来は変えられる」と伝えるのが支援者の役目だと思います。


それが愛着障害を持つ傾向の強い支援者という人達が、「お母さんのせいじゃないから」と強調し、悲しむ人に寄り添う自分を造りだすことで、自分自身の愛着障害を治療しようとする。
だから、親御さんを悲しませる“お子さん”を、“子育て”自体を、支援者が預かろうと手を伸ばす。
「私達が支援するから」と預かれば、その瞬間は、親御さんの心は癒える。
ただ預ける時間が長くなるほど、親と子の心身は離れていく。
そうなると、親子の間で、家庭という環境の中で、刺激はやせ細っていき、結局、より良い発達、成長が起きなくなる。
それが「お子さんの特徴を教えてください」と言われて、「わかりません」という言葉になって表れる。


塾に通っているから成績が上がるのではなく、勉強するから成績が上がるのは、当たり前のこと。
だったら、親の役割としては、勉強を教えることではなく、自ら学び、成長していける姿勢、身体を育てることだといえます。
「あとはお願いね」みたいな姿勢は、子どもを育てているとはいえません。
それはお金を出しているだけ。
お金を出すだけでうまくいくのなら、毎日、児童デイに通っている子は、専門機関の療育を受けている子は、みんな、症状は消えていき、自立していくでしょ。


「親次第で、この子の未来は変わる」と思えば、親御さんは頑張れるもの、我が子のために必死になれるもの。
逆に、「障害だから生涯変わりませんよ。社会が変われば、この子達は生きやすくなる」と言われれば、どんどん子育ての意欲、主体性が失われていくのは当然。
結局、今の特別支援は、親御さんの子育ての機会を奪い、養育力を高める機会を奪っている。
だからなおのこと、預けるしかなくなる。
預かれば、支援者は安泰。
ある意味、親御さんも安泰。
でも、その子の人生は、どうなるのか。


親次第で、子は変わる。
子が変わるから、また親は頑張ろうと思う。
その育み合いが、子どもの人生をより良いものへと変えていく。
発達に遅れがあろうがなかろうが、子どもを育てているのだから、それは療育でも、支援でもなく、子育てです。
専門家の療育、支援が一番の成長と自立につながるのなら、コロニーの時代に戻りますかね。



0 件のコメント:

コメントを投稿