2019年4月29日月曜日

「治らない人がいる」=「みんな、治らない」にはならない

「この子は、言葉を話すことはないね」と、医師より告げられた子が言葉で会話をしている。
「この子は、生涯、支援を受けて生きていく子」と、支援者より言われた子が、今、一般就労して働いている。
他にも、「この子は、支援級の子」と言われた子が大学に通い、「運動は無理」と言われた子が体育会系の部活動で汗を流している。
「感覚過敏は障害特性」で環境調整とイヤーマフで生活していた子が、刺激に圧倒されることなく、普通に生活している。
睡眠障害だった子が、夜には眠くなり、朝までしっかり眠られるようになっている。
こういった子ども達に対して、「治った」と言って、何が悪い。


だって、全部、「不可能だ」「無理だ」「治らない」と言われたものだから。
治らないと言われていたものが、そうではなくなった。
症状が消えて、普通に生活ができるようになった。
それを「適応しただけ」「発達しただけ」「成長しただけ」というのは、辻褄が合わないだろう。
治らないものが治ったんだから、「治った」という言葉が一番状態を適切に表している。


治らないと言われていたものが、治る。
それは、「治る」と表現することが間違っているのではなく、前提である「治らない」が間違っていると考えるのが自然だろう。
ましてや、障害と言われるくらいのものなのだから、「治らない」という前提が変わるなら喜ばしいこと。
でも、どういうわけか、発達障害に関しては、というか、どっぷりギョーカイに浸かっている者たちは、前提の間違いを認めようとしない。


当然、発達障害の原因は特定されていないのだから、いろんな要素から神経発達の遅れが生じる。
なので、全員が全員、治るかどうかはわからないが、治る人がいるのは当然。
そしてスペクトラムなのだから、治らない人でも100%治らないなんてことはなく、部分的に治る人もいるだろう。
治らない人の中にも、治せる部分はある。
神経が発達する、そのこと自体が生じない、ダメージを受けているわけでないのなら。


このように考えると、また冒頭で紹介させていただいた私が実際見てきた人達がいるのだから、「治らない」と言い切ることはできない。
「治らない障害」と言うのなら、それは、その人の周りに治った人がいないか、その人がやってきた療育、子育てが、神経発達に繋がっていないか。
あなたの目の前にいる子が治らないからといって、世の中、すべての子ども達が治らないか、といったら大間違い。
自分ではなくて、医師や専門家が「治らない」と言うから「治らない」と思うのは自由。
しかし、冒頭の子ども達と親御さんたちのように、医師から、専門家から「治らない」「生涯、支援」と告げられたのにもかかわらず、そのようになっていない子ども達がいることも忘れてはならない。


「治るか、治らないか」なんて話題になることすら、おかしなこと。
「治る人もいるし、治らない人もいる」が真実。
「治らない人の中にも、治る部分がある、育てられる部分がある」が真実。
それ以下でも、それ以上でもない。
繰り返しになるが、発達障害になった原因が特定されているわけではないから。
その原因は、人それぞれ違うから。
神経の発達の問題だから。


私は思います。
発達障害者である前に、一人の子であり、一人の人間である。
だから、どう子どもを育てていくか、どうやって自分自身を育んでいくかの話。
他人様の家庭が、どのような方針で子育てをしようとも、その人自身がどのような生き方をしようとも、個人の自由。
ただ私は、あたかも「治る」「治す」を目指すこと自体が誤りである、おかしなことである、みたいなのは間違えだと思う。


実際に、治っている人がいて、部分的に育ち、育める部分がある。
0か、100かではなく、治らないか、治るではなく、治る人がいて、治らない人がいる。
治るを完全に否定する理由がどこにあるのか。
治った存在、人たちを、「誤診だ」「軽かったんだ」「適応しただけ」「寛解だ」「また悪くなるはず」と言って傷つけたり、足を引っ張ったりする意味はなんだろうか。


少なからず、重なる部分があり、同じような苦しみを抱えていた人が、その状態から脱し、「治った」と喜んでいるのなら、一緒に喜ぶのが自然な反応だと思う。
そして、自分もあとに続け、自分でも取り入れられることがあれば、と動くのが自然な動きだと思う。
だから私は、こういった自然な反応がみられない人達を見ると、個人的な感情で物事を言っているようにしか見えないのだ。


これまで、多くの親御さん達と関わらせてもらったが、治る可能性がゼロではなく、1%でもあるのなら、完全に治らなくても、普通の人と同じようにならなくても、部分的に治せるところがあり、育めるのなら、それだけで前に進む大きな力になるのだ、と感じる。
極端なことを言えば、ゼロじゃないことが大事。
不安でいっぱいのとき、まだ子どもが年端もいかないくらいのとき、医師から、専門家から「ゼロ」だと言われたのだ。
本当はゼロじゃないのに。


その子に治る可能性がないのと、周囲が治るアイディアを持っていないのでは、その「治らない」の言葉の意味は、まったく異なる。
同じように、周囲が治ってほしくない、という個人的な感情で言っている「治らない」も、まったく異なる。
入り口のところで、医師、専門家から傷つけられる。
その上、先輩の親御さんから、当事者の人から、支援者の人からも、「可能性はゼロ」だと傷つけられる。
私には、みんなで足を引っ張り合っているようにしか見えない。
その先に、誰の幸せもないと思えてならない。
特別支援の世界は、いびつだ。
まるで他人の不幸を望んでいるよう。


「治らない。自分にはできることがない、と思っていたけれども、子どもが育ち、変わっていく様子を見て、これからも子育てを頑張ろうと思いました」
そのようなことをおっしゃってくれる親御さん達がいる。
子どもは未来の希望。
だからこそ、希望を持って子育てできる後押しをすることが、本来の支援者の姿、役割。
未来の希望の芽を摘んではならない。




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