2019年4月11日木曜日

発達の逸脱に気づいた時点での「治す」

「治す」と耳にすると、苦しんでいる状況、状態があって、そこから救うための「治す」を連想します。
睡眠障害を治す。
自傷行為を治す。
激しいこだわりを治す。


偏食や他害だって、結局は、自分自身を苦しめる結果になるのですから、これもネガティブな状態からの脱却という意味での「治す」になると思います。
目の前に苦しんでいる人がいて、特にそれが我が子だったら、この苦しみから、どんなことをしてでも救ってあげたい、少しでもラクにしてあげたい、と想い、願い、行動するのが自然な親心というものでしょう。


一方で、ネガティブな状況からの脱却という意味ではない「治す」もあると思います。
その子が本来持っている力、発達の流れが妨げられている状態からの脱却。
喃語は出ているけれども、それ以降の言語発達がみられない。
立って歩くようにはなったけれども、なんだか身体の使い方がぎこちない。
一人遊びをするんだけれども、友達と遊ぶ段階に進んでいかない。


本人の視点に立てば、必ずしも苦しんでいるわけではない。
でも、本来、辿っていただろうその子の発達の流れに乗れていない状況を、どうにかしてあげたい、もっと伸びやかな発達、成長を遂げてほしい。
そんな願いから出てくる「治す」もあるのだと思います。


「発達障害を治す」と聞くと、性格や資質を矯正でもして変えさせよう、と連想する人がいます。
そういった人は、発達障害を固定されたもの、生来的なもので変化しないもの、と捉えているのだと思います。
中には、古い時代の「脳の機能障害」「生まれつきの障害」と言われていたのを、自らで考えることなく、信じてしまった結果の人もいるかもしれません。
しかし、発達障害とは、簡単に言えば、「いま、発達の遅れがある状態」と言っているだけ。
だから、その遅れた状態を治すのは、当然ですし、何よりも本人のためになるのです。


「遅れたままでいなさい。それがあなたの個性だから」
そんな残酷なメッセージを、子ども達に送ることができるのでしょうか。
子どもが苦しんでいる状態を目の前にしていて、ただ指をくわえてみているだけ。
病気で苦しんでいたら、病院に連れていくでしょう。
それがすぐにできないのなら、汗を拭き、頭を冷やし、栄養のあるもの、食べられるものを少しでも、と思うし、そっと手を握る、背中をさするのが、自然な姿。
病気で苦しんでいる子をそのままにしておくのは、ネグレクト。
私は、発達の遅れに対し、そのままを求め、行動をしないのは、育児放棄と言われても、支援者なら職責放棄と言われても仕方ないと思います。


以前は、「我が子の苦しみをラクにしたい」という「治す」を求め、相談される方が多かったように感じます。
しかし、年々、「この子の本来の姿、発達の流れに乗せてあげたい」という「治す」の相談、依頼が増えてきました。
これは、幼い子の親御さんからの相談が増えたことが大きいと思います。


睡眠障害や自傷、パニックなど、苦しみが表面化して、「明らかに辛いよね」となる前に、親御さんが気づくようになった。
「あれ、おかしいな」と感じた瞬間に、すぐにネットで情報を集める。
そうすると、治った声が聞こえてくる。


幼い子の親御さんは、「発達の逸脱」から入ってきます。
ですから、本来の発達の流れに乗せよう、つまり、子育てのアイディアを求め、入ってくるのです。
「より良く育てたい」という前向きな「治す」が増えてきました。
実際の治った声が、辛い症状として表れる前に、職責を果たさない特別支援の世界に入る前に、「発達の遅れは家庭の中で、子育ての中で、育む」という自然の姿のままに留まらせるのだと感じています。


これから益々、「この子の持っている本来の発達の流れに乗せてあげたい」というような「治す」が増えていけばいいと思います。
そうすれば、辛い症状が表れる前に、治っていける子ども達が増えるから。
そうすれば、一旦、子育ての放棄という異様な世界を通り、親子共々、味わう必要のない苦しみを感じることがなくなるから。


「発達の逸脱に気づいた時点で治す」
これこそが、本当の意味での「早期発見、早期療育」ではないでしょうか。
早く見つけておいて、その遅れをそのままにしておくのは、ただの『青田買い』ですね。
子ども達は、支援者を食わせるための稲じゃない。

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