発達は常に前に進むからこそ、凸凹が生じる
20代の頃、一時期、論文ばかり集めて読んでいる時期がありました。
そんな中で、確かアメリカの研究だったのですが、共同注視を後天的に教え、身に付けさせる、という内容の論文を読んだ覚えがあります。
自閉症の人達は、幼少期、共同注視(お母さんが空の飛行機を見たら、自分もお母さんの視線の方向に気がつき、同じ飛行機を見る、など)がみられない、発達が遅れる、と言われています。
ですから、その共同注視をトレーニングして身に付けさせれば、それ以降の発達過程である共感、社会性の発達、改善につながる、という研究報告でした。
その論文を読んだとき、世界には、こんなことを考える人がいるのか、また実践しているのか、と思ったものです。
ヒトが自然と発達させ、身に付けていくことを、あとから教えて身に付けさせようとする。
その不自然さを感じるとともに、もし、こういったトレーニングに効果があり、あとからでも身についていくのなら、当時、不可能だと言われていた自閉症の障害特性に関する改善、治療ができるかもしれない、と思いました。
それから、同じような研究がないか調べたところ、物事を一対一対応させてしまう思考に対し、同じものを使って、与えられた要素ごとに、いろんなカテゴライズの仕方を行っていき、柔軟な思考へと改善していく、という実践もありました。
多分、マイナーな研究、実践だったと思いますが、「やらなかったり、遅れてたりするんだったら、そこを後からやりなおそう」みたいな考え方に、特に若い頃、触れられたのはラッキーだったと思います。
実際、いくつかのアイディアを実践したことがありますが、確かに、その部分に関しては良い変化、発達がありました。
ですから、あとから育てられることも不思議には思いませんし、抜かしていた発達課題をクリアすれば、それ以降の発達に影響が出てくるのは当然だと思います。
「発達障害が治る」ということに関して、「それは“治った”ではなく、適応しただけ、改善しただけ」というような人がいます。
多分、それは、日頃、表面的なアプローチ、対処療法、対症療法しかやっていない人が考えることなんだと思います。
そりゃあ、目に見える症状、言動に対してのみ、いじくったり、抑え込もうとコントロールしたりしても、治るわけはありません。
治るためには、今を見ていてもできっこないのですから。
その子の人生、発達の歩みをトータルで見る、辿っていくことが必要です。
発達に遅れが出ている子がいれば、どの時点で発達の遅れが生じたか、それを見つける必要があります。
発達とは、受精した瞬間からの連続体です。
ですから、ある時点で、ある発達過程で、課題が生じれば、それ以降の発達に影響がでます。
そのために、できるだけ発達の遅れと繋がっている課題の根っこを掴むことが大事です。
掴んだ部分が根っこに近ければ近いほど、それ以降の発達にも関わってくる。
当然、根っこが育てば、その次の発達、その次の発達という具合に、どんどんポジティブな変化が生じてきます。
私も、100人いれば、100人とも、発達障害が治るとは考えていません。
それは、全員が全員、発達の遅れが生じた根っこがわかり、そこから完全に治していけるとは限らないから。
たとえ、根っこを掴んだとしても、時間と労力と環境の影響も受けますし、何より本人と家族の力、行動、選択にかかっているから。
また、現時点での診断レベルでは、「どうして発達に遅れが生じたか」その原因までわからないため、生物学的な原因から神経発達が阻害されている子もいると考えられるためです。
しかし、現時点での主観が入る余地ありありの診断では、生物学的な阻害などではなく、たまたま、いろんな要因が重なって、そのとき、必要だった発達刺激が受けられなかった、それで発達の遅れが生じてしまった、という子ども達が大勢いると考えられます。
もし生物学的ですとか、遺伝的な変異ばかりだとしたら、それこそ、世界規模で、人類史上、大変な問題となるはずです。
人類の歴史から見て、10年とか、100年とか、1000年単位で、生物としてのヒトそのものが変わるわけはありません。
発達の課題の根っこに近ければ近いほど、そこを育て治していければ、それ以降の発達過程が大きく変わってくるのは当然だといえます。
そうなれば、ガラッと変わることもあるでしょうし、「本当に、発達障害だったの??」と言われるくらいまで治る子も出てきます。
だって、発達の遅れの始まりから育て直しちゃうのですから。
逆に言えば、その根っこを育て直さずして、いくら表面的な対処をしようとも、発達障がいそのものは変わっていきようがないのです。
もし、発達障害が改善だったり、適応しただけだったりしたら、様々な刺激と変化に影響を受け、揺り戻しが起こります。
でも、発達課題の根っこ、元の元を育て直せば、そんな揺らぎなど起きるはずはありません。
一度、発達したものが、一度、クリアした発達課題が振出しに戻ることはあり得ないのです。
もし、そんな状態が起きたとしたら、それは老化のみ。
何故なら、発達とは後戻りしないから。
発達とは、生を受けた瞬間から死を迎えるまで、前にしか進めないもの。
発達障害は、『発達』の障害だからこそ、いつからでもやりなおせるし、そこから前に進むことができる。
ただ前にしか進むことができない特徴が、発達が抜けたら抜けっぱなしで、そのまま前に進んでしまう、次の発達段階へ進んでしまう、という発達障害が生じやすい理由にもなっていると思いますが。
結局、それが発達の凸凹になるんでしょう。
発達が、常に前に進むという特徴を持っていなかったとしたら、発達障害という概念は存在しなくなり、みんな、知的障害になったと思います。
私が論文を読むことに集中していた時期は、すでに10年以上前。
でも、その時点で、世界に目を向ければ、抜かしていた発達課題をトレーニングと指導によって、あとから育てよう、そこから改善していこうとしていた人達がいたということになります。
障害をそのままにするのではなく、ヘンにすべてを受け入れましょう、みたいな精神世界に向かうのではなく、現実的に目の前の人の困難をどう改善していけるか、治していけるか、と励んでいる人達も大勢いますし、それ自体、自然な考え方だといえます。
「治すなんてトンデモだ」という人もいますが、世界的な視点で見れば、「治そうとしないなんてトンデモだ」と言えるかもしれませんね。
そんな中で、確かアメリカの研究だったのですが、共同注視を後天的に教え、身に付けさせる、という内容の論文を読んだ覚えがあります。
自閉症の人達は、幼少期、共同注視(お母さんが空の飛行機を見たら、自分もお母さんの視線の方向に気がつき、同じ飛行機を見る、など)がみられない、発達が遅れる、と言われています。
ですから、その共同注視をトレーニングして身に付けさせれば、それ以降の発達過程である共感、社会性の発達、改善につながる、という研究報告でした。
その論文を読んだとき、世界には、こんなことを考える人がいるのか、また実践しているのか、と思ったものです。
ヒトが自然と発達させ、身に付けていくことを、あとから教えて身に付けさせようとする。
その不自然さを感じるとともに、もし、こういったトレーニングに効果があり、あとからでも身についていくのなら、当時、不可能だと言われていた自閉症の障害特性に関する改善、治療ができるかもしれない、と思いました。
それから、同じような研究がないか調べたところ、物事を一対一対応させてしまう思考に対し、同じものを使って、与えられた要素ごとに、いろんなカテゴライズの仕方を行っていき、柔軟な思考へと改善していく、という実践もありました。
多分、マイナーな研究、実践だったと思いますが、「やらなかったり、遅れてたりするんだったら、そこを後からやりなおそう」みたいな考え方に、特に若い頃、触れられたのはラッキーだったと思います。
実際、いくつかのアイディアを実践したことがありますが、確かに、その部分に関しては良い変化、発達がありました。
ですから、あとから育てられることも不思議には思いませんし、抜かしていた発達課題をクリアすれば、それ以降の発達に影響が出てくるのは当然だと思います。
「発達障害が治る」ということに関して、「それは“治った”ではなく、適応しただけ、改善しただけ」というような人がいます。
多分、それは、日頃、表面的なアプローチ、対処療法、対症療法しかやっていない人が考えることなんだと思います。
そりゃあ、目に見える症状、言動に対してのみ、いじくったり、抑え込もうとコントロールしたりしても、治るわけはありません。
治るためには、今を見ていてもできっこないのですから。
その子の人生、発達の歩みをトータルで見る、辿っていくことが必要です。
発達に遅れが出ている子がいれば、どの時点で発達の遅れが生じたか、それを見つける必要があります。
発達とは、受精した瞬間からの連続体です。
ですから、ある時点で、ある発達過程で、課題が生じれば、それ以降の発達に影響がでます。
そのために、できるだけ発達の遅れと繋がっている課題の根っこを掴むことが大事です。
掴んだ部分が根っこに近ければ近いほど、それ以降の発達にも関わってくる。
当然、根っこが育てば、その次の発達、その次の発達という具合に、どんどんポジティブな変化が生じてきます。
私も、100人いれば、100人とも、発達障害が治るとは考えていません。
それは、全員が全員、発達の遅れが生じた根っこがわかり、そこから完全に治していけるとは限らないから。
たとえ、根っこを掴んだとしても、時間と労力と環境の影響も受けますし、何より本人と家族の力、行動、選択にかかっているから。
また、現時点での診断レベルでは、「どうして発達に遅れが生じたか」その原因までわからないため、生物学的な原因から神経発達が阻害されている子もいると考えられるためです。
しかし、現時点での主観が入る余地ありありの診断では、生物学的な阻害などではなく、たまたま、いろんな要因が重なって、そのとき、必要だった発達刺激が受けられなかった、それで発達の遅れが生じてしまった、という子ども達が大勢いると考えられます。
もし生物学的ですとか、遺伝的な変異ばかりだとしたら、それこそ、世界規模で、人類史上、大変な問題となるはずです。
人類の歴史から見て、10年とか、100年とか、1000年単位で、生物としてのヒトそのものが変わるわけはありません。
発達の課題の根っこに近ければ近いほど、そこを育て治していければ、それ以降の発達過程が大きく変わってくるのは当然だといえます。
そうなれば、ガラッと変わることもあるでしょうし、「本当に、発達障害だったの??」と言われるくらいまで治る子も出てきます。
だって、発達の遅れの始まりから育て直しちゃうのですから。
逆に言えば、その根っこを育て直さずして、いくら表面的な対処をしようとも、発達障がいそのものは変わっていきようがないのです。
もし、発達障害が改善だったり、適応しただけだったりしたら、様々な刺激と変化に影響を受け、揺り戻しが起こります。
でも、発達課題の根っこ、元の元を育て直せば、そんな揺らぎなど起きるはずはありません。
一度、発達したものが、一度、クリアした発達課題が振出しに戻ることはあり得ないのです。
もし、そんな状態が起きたとしたら、それは老化のみ。
何故なら、発達とは後戻りしないから。
発達とは、生を受けた瞬間から死を迎えるまで、前にしか進めないもの。
発達障害は、『発達』の障害だからこそ、いつからでもやりなおせるし、そこから前に進むことができる。
ただ前にしか進むことができない特徴が、発達が抜けたら抜けっぱなしで、そのまま前に進んでしまう、次の発達段階へ進んでしまう、という発達障害が生じやすい理由にもなっていると思いますが。
結局、それが発達の凸凹になるんでしょう。
発達が、常に前に進むという特徴を持っていなかったとしたら、発達障害という概念は存在しなくなり、みんな、知的障害になったと思います。
私が論文を読むことに集中していた時期は、すでに10年以上前。
でも、その時点で、世界に目を向ければ、抜かしていた発達課題をトレーニングと指導によって、あとから育てよう、そこから改善していこうとしていた人達がいたということになります。
障害をそのままにするのではなく、ヘンにすべてを受け入れましょう、みたいな精神世界に向かうのではなく、現実的に目の前の人の困難をどう改善していけるか、治していけるか、と励んでいる人達も大勢いますし、それ自体、自然な考え方だといえます。
「治すなんてトンデモだ」という人もいますが、世界的な視点で見れば、「治そうとしないなんてトンデモだ」と言えるかもしれませんね。
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