2019年4月25日木曜日

昭和っぽさ、平成っぽさ、発達障害っぽさ

もうすぐ年号が平成から令和に変わります。
でも、4月30日と5月1日で、何か大きく変わるかといったら、そうではないと思います。
だって、30日の23時59分59秒と1日0時00分は連続しているから。


かつての昭和がそうだったように、平成も「平成という時代は…」という具合に振り返られることがあると思います。
平成という30年間が、一つの括りとして語られる。
それ自体は良いことでも、悪いことでもありませんが、一人の人間としてみれば、そこには人間の数だけ、30年間があるのだといえます。


一人ひとりの歴史があり、発達の流れがある。
ある意味、『発達障害』というのは、平成みたいなもの。
「なんとなく、〇〇って昭和っぽいよね」「平成っぽいよね」と似ています。
大まかな括り、共通言語にはなるけれども、具体的なものを表しているわけではありません。
一人ひとりが感じる「昭和っぽさ」「平成っぽさ」があるように、どうしても個人の経験、考えに依存している。


「発達障害」「発達障害」と言われるけれども、結局、具体的な何かが存在しているわけではありません。
みんな、同じ「発達障害」という言葉を使っているけれども、それぞれ捉え方、感じ方は違っています。
世界的な診断基準とやらがありますが、それだって具体的な何か、客観的な何かを見て診断しているのではなく、どうしても診断者の主観が入ってしまう形態になっています。


ということは、診断ができる人だろうが、日頃、支援で携わっている人だろうが、家族だろうが、間接的に知っている人だろうが、みんな、主観から逃れられることはできない、ということになります。
それぞれの昭和、平成があるように、それぞれの発達障害がある。
家族なら身内の人がベースになるし、教師や支援者だって関わってきた人達がベースになる。
診察室で多くの人達と関わってきた専門家だって、診断室で見える姿がベースになる。


なので、専門家だなんだかんだ言っても、主観と経験を元に、その人の発達障害像があるのは、他の人達と変わりがないことです。
すべての発達障害の人達と出会い、関わることはできません。
神経の発達は、一人ひとり異なりますし、そのとき、そのときで状態も変わります。
そもそもが「発達障害とはこうである」とは言えないものなのです。


発達障害像とは、その個人の考え、経験が反映されます。
ですから、状態が変わらず苦しんでいる人達と関わることの多い人ならば、発達障害は変わらず、苦しみ続ける人、という発達障害像ができるでしょう。
反対に、発達、成長している人達と関わっている人ならば、発達障害は固定化されたものではなく、アプローチによって変わっていくという障害像を持っている。



同じ「発達障害」という表現をしていても、その個人によって意味するところ、感じるところは異なっています。
ですから、治らない支援者のもとには治らない人達が集まり続け、治る支援者のもとには治る人達が集まってくる。
支援者組合も、ママ友も、同じ。
治せない支援者は治せない支援者と徒党を組み、治さない子の親は治らない子の親と息を合わせていく。


発達障害とは、「なんか、それって昭和っぽくないww」と同じ。
そもそも具体的に表せないものを、なんとなく「こんな感じ」という具合に、一つの言葉にしているだけだから。
「神経の発達に、何らかの障害が起きている人達ですよ。その神経は全身に張り巡らされているし、その障害だって発達期に起きていることしかわからないんです」
これくらいのレベルの話に、「発達障害とは〇〇である」とは言い切れないと思います。


「発達障害とは〇〇である」と言い切る人を見ると、その障害観がとても狭い範囲の話だったり、多いのは、その人個人の体験のみだったりします。
「発達障害は〇〇だから」という人は、「発達障害=自分」だったり、「発達障害=我が子」だったりする。
それこそ、個人のエピソードを十人十色の発達に当てはめて語るなよ、という感じです。


発達障害が治るか、治らないかは、ずっと結論が出ないと思います。
何故なら、個人の障害観に左右されるから、もっと言えば、主観から逃れられないから。
治った人を見たことがない人は、治るを信じることができない。
同じように、まったく治らない人を見たことがない人は、治らないを信じることができない。
でも、それで良いのです。


「これこそが昭和である、平成である」なんて決着をつける話じゃないのと一緒。
治らないことに発達障害っぽさを感じているのなら、そのまま、治らない道で突き進めばよいのです。
治ることに発達障害っぽさを感じているのなら、そのまま、治していけば良いのです。


私の発達障害観は、冒頭の年号の話と重なります。
神経発達障害なんだから、連続体でしょ、ということ。
定型発達と言われる人だって、発達期のどこかで神経発達に課題があっただろうし、育てなおしてきた。
それは発達障害の人達ともつながっていて、違いがあるとすれば、育て直す機会が後に、後になってきただけのこと。
当然、あとになればなるほど、その間も神経発達は行われているのだから、発達に凹凸ができるのは自然。
つまり、定型も、非定型も、分離した存在同士ではなく、連続していて繋がっている。
端的に言えば、神経発達の仕方、表現に違いがあるだけ。


4月30日と5月1日が繋がっているように、スペクトラム、連続体として、発達障害も、定型発達も繋がっています。
だから、神経発達が進めば、発達のヌケを育て直せば、定型発達の範囲に入るのは自然な現象。
「決して治らない」という人は、流れが分離してしまっている人。
平成と令和で、まったく別物になってしまうくらいの感じなのでしょう。
でも、それ自体は、否定も、肯定もされることではありません。
だって、その人の主観だから。


私は、治らなかった人達と同じくらい、大勢の治っている人達を見てきたからこそ、「育み、治していける」という障害観を持っているのです。
私の発達障害観を作ってくれたのは、治った人たちと、そのそばで育み、後押しをしていた人たちです。

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