一次障害と二次障害は分けられるものなのだろうか
近頃、私はこう思うんです。
「一次障害、二次障害を分ける必要があるのだろうか」「分ける必要はないんじゃないか」と。
二次障害って、自閉症の人で言ったら、その特性からくる困難さとは違った別の問題のことを指しますよね。
で、認識としては、発達障害+鬱や睡眠障害、問題行動のある人って感じ。
「まずは二次障害を治しましょう」なんて、よく言われることで、二次障害のある人は、支援よりも先にそちらを治療してから、という決まり(?)、雰囲気みたいなのがあります。
でも、私も、発達障害だけではなく、そういった二次障害と呼ばれるものを持った人と接しているのですが、二次障害だけに焦点を当てた治療を受けても良くならない印象を受けます。
例え、鬱などの精神疾患の状態が良くなったとしても、どうも経過が不安定というか、また時間が経つと悪化する感じ。
結局、良くなった、悪くなったを繰り返して、何年も時が経つ、みたいなことが多いような気がします。
私は医師ではないので、そういった精神疾患の治療はできないため、こうするしかないのですが、反対に一次障害というか、発達の遅れやヌケを取り戻すような援助を続けていくと、精神面も、行動面も、安定していくような気がしています。
これは良く考えると、当たり前な話で、一次障害も、二次障害も、同じ人で起きている、同じ人の内側と繋がっている問題ですから。
成長する過程で残してきた発達のヌケを辿り、育てなおせば、発達の凸凹は埋まり、生きやすくなる。
当然、本来、その人が持っていた資質だって表に出てくるようになります。
そうなれば、資質を活かして、より良く社会とつながることだってできる。
私には、「二次障害」という概念が本人のためのものではないように思えるのです。
一次障害だってそうですが、その人にとっては明確な区別などなく、あるのは気持ちと脳と身体の不具合、違和感だけです。
それが良くなり、ラクになれば、良いのです。
ですから、「二次障害」という概念は、本人のためのものではなく、医師の側のもの。
悪く言えば、医療と福祉、教育の主導権争いの言葉のように見えなくもありません。
「二次障害」という概念があることにより、医療は福祉、教育からイニシアチブをとります。
そして、福祉は「二次障害」というワードを使って、「二次障害にならないように」と自分たちの支援の維持と拡充を図っています。
また何か事件やトラブルが起きたときに、その人から問題の所在を切り離すために「二次障害」が使われることもあります。
結局、発達のヌケを抱えてくる人はいても、二次障害を抱えて生まれてくる人はいないんですね。
ですから、発達のヌケを埋める援助こそが、根本から治す行為だと思うのです。
「一次も、二次も、明確に分けれるものではない、だって同じ人の脳、身体、心とつながり、そこで起きていることだから」
治療のために障害があるのではなく、障害があるから治療がある。
大事なのは、目の前にいる人の生身の身体で起きている苦しみに目を向けることであり、そして、その苦しみを「ラクにしてあげたい」と思う心と、そのための行為が必要なのだと思います。
「一次障害、二次障害を分ける必要があるのだろうか」「分ける必要はないんじゃないか」と。
二次障害って、自閉症の人で言ったら、その特性からくる困難さとは違った別の問題のことを指しますよね。
で、認識としては、発達障害+鬱や睡眠障害、問題行動のある人って感じ。
「まずは二次障害を治しましょう」なんて、よく言われることで、二次障害のある人は、支援よりも先にそちらを治療してから、という決まり(?)、雰囲気みたいなのがあります。
でも、私も、発達障害だけではなく、そういった二次障害と呼ばれるものを持った人と接しているのですが、二次障害だけに焦点を当てた治療を受けても良くならない印象を受けます。
例え、鬱などの精神疾患の状態が良くなったとしても、どうも経過が不安定というか、また時間が経つと悪化する感じ。
結局、良くなった、悪くなったを繰り返して、何年も時が経つ、みたいなことが多いような気がします。
私は医師ではないので、そういった精神疾患の治療はできないため、こうするしかないのですが、反対に一次障害というか、発達の遅れやヌケを取り戻すような援助を続けていくと、精神面も、行動面も、安定していくような気がしています。
これは良く考えると、当たり前な話で、一次障害も、二次障害も、同じ人で起きている、同じ人の内側と繋がっている問題ですから。
成長する過程で残してきた発達のヌケを辿り、育てなおせば、発達の凸凹は埋まり、生きやすくなる。
当然、本来、その人が持っていた資質だって表に出てくるようになります。
そうなれば、資質を活かして、より良く社会とつながることだってできる。
私には、「二次障害」という概念が本人のためのものではないように思えるのです。
一次障害だってそうですが、その人にとっては明確な区別などなく、あるのは気持ちと脳と身体の不具合、違和感だけです。
それが良くなり、ラクになれば、良いのです。
ですから、「二次障害」という概念は、本人のためのものではなく、医師の側のもの。
悪く言えば、医療と福祉、教育の主導権争いの言葉のように見えなくもありません。
「二次障害」という概念があることにより、医療は福祉、教育からイニシアチブをとります。
そして、福祉は「二次障害」というワードを使って、「二次障害にならないように」と自分たちの支援の維持と拡充を図っています。
また何か事件やトラブルが起きたときに、その人から問題の所在を切り離すために「二次障害」が使われることもあります。
結局、発達のヌケを抱えてくる人はいても、二次障害を抱えて生まれてくる人はいないんですね。
ですから、発達のヌケを埋める援助こそが、根本から治す行為だと思うのです。
「一次も、二次も、明確に分けれるものではない、だって同じ人の脳、身体、心とつながり、そこで起きていることだから」
治療のために障害があるのではなく、障害があるから治療がある。
大事なのは、目の前にいる人の生身の身体で起きている苦しみに目を向けることであり、そして、その苦しみを「ラクにしてあげたい」と思う心と、そのための行為が必要なのだと思います。
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