「まずは二次障害を治してから、就労を目指しましょう」という決まり文句

いわゆる二次障害を持った成人の方は、支援者にこう言われる。
「まずは二次障害を治してから、就労を目指しましょう」と。


実際、私のところにも、支援者からこのように言われたという人が来ます。
そして、みなさん、支援者から「無理をしない」と言われれば、挑戦や新しい試みは行わず、「今は休むとき」と言われれば、ゆっくり休むことを行っていました。
当然、エネルギーのある10代、20代の若者たちは、「休め」と言われて休んでいるけれど、日々、変化のない、休むことだけの時間と生活に、息が詰まり、ふつふつとした思いが溢れ出してくる。


こういった生活が続くと、「他の人は働いている」「みんな、自分の生活を送っている」「それに引き換え、自分は…」となり、本当に心が病んできます。
支援者から言われた通り、しっかり休んだ人が、どんどん病んでいく。
これが笑えない現実です。
そうして、どんどん年齢が上がっていき、履歴書の空欄が広くなって、本当に働く機会が失われていくのです。
実際に働くために動き出したときには、福祉の道しか残っていない。
ギョーカイの目指す固定資産化は、ここに完成をみます。


私のところに連絡をくださる方達は、みなさん、「このままでは、一生望んでいる就労はできない」と気が付いた人であり、自分の内側から湧き上がってくる感情を抑えられなくなった人です。
このようにギョーカイの手の中から出ようと動き出した人は、みなさん、精神状態のどん底を抜け出し、快方へと向かっている方達ばかりです。
ですから、私は実際に就職に向けたサポートをします。


「二次障害が治っていないのに、どうしてそんなことをするんだ」
「そんな状態で動き出し、また状態が悪くなったらどうするんだ」
というような意見をいただくこともあります。
でも、そういう支援者の負け惜しみにかまっている暇はありません。
何故なら、就職活動、そして働くことこそが治療になると考えているからです。


私は、医師の「治った」という言葉ではなく、自分自身で「治った」「大丈夫だ」という感覚を持った人の方が正しいと考えています。
実際、そういう人達は、希望の進路に向かって歩みだすと、どんどん回復していきますし、治っていきます。
そういった姿を見てきました。
私は、「自分が社会の誰かの役に立っている」「今までの自分とは違う」「自分の人生を自分で決めることができている」、こういった想いを感じられることこそが治療だと思うのです。


結局、二次障害というのは、実態のないオバケのようなものです。
周囲から「怖い、怖い」と言われ、怖い何かがあるような錯覚を起こすようになっているだけです。
想像してみてください。
もし医師から「二次障害が治りました」と言われたら、支援者たちは、自分の希望する進路、就職に向けて全力で応援、サポートしてくれるでしょうか?
そうなる場合は、多くないと思います。
だって、支援者から完全に自立してもらっては困るから。
ずっと支援したいのが、支援者なのです。
だから、「二次障害が治りました。一般就労を目指します」と言えば、きっと支援者は「でもね、発達障害があるから」「障害の理解のない職場は難しいから」と、ストップをかけるはずです。
「二次障害」というオバケが消えたら、「一次障害」というオバケを出してきて脅かすだけです。


私は、支援者の言う「二次障害を治してから」は信じていません。
何故なら、支援者が本気で二次障害を治そうとしないし、治した実績を見たことがないからです。
それに働くうちに、一次も、二次も、どちらの症状も良くなる人、治っていく人、別人のように成長してく人をこの目で見てきたからです。


身体や精神状態が辛い人は、まずその症状を緩めていくことが大事です。
しかし、いつまでも療養していては、治り切ることはない。
私は、自分で「治った」「働いてみよう」と思ったときにこそ、動き出してほしいと思っています。
その内から溢れ出る想いに沿った生き方の方が自然であり、自然治癒力と発達する力を引き出すような気がするのです。


今まで、支援者から言われた通り、無理せず、挑戦せず、とにかく休む、ということを続けてきた人が、いつまで経っても、好不調の波から抜け出さず、気が付いたときには、選択肢が狭まっている、という姿を見てきました。
ですから、支援者の言葉よりも、自分の内側にある言葉に従ってほしいと思います。
治す力は、自分の内側にあり、社会の中にあるのですから。


支援者の言う「二次障害が治ってから」という“とき”は、本当にやってくるものなのでしょうか?

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