【No.1249】エビデンスに踊らされる日本

「エビデンス」というのも立派な横文字で、輸入された言葉であり、概念だといえます。
ですから、その言葉の成り立ち、どのような意味があるのか、わからないまま、使っている人が多数である印象です。
なんだか、自分が主張したいことが先にあって、それを補完してくれる研究、結果を見つけては「エビデンス」と言っているような気がします。
そもそも輸入元では、その治療、薬、療法が適切かどうか、もっといえば、そこに保険金を出すかどうかの判断として「エビデンス」が使われているわけで、日本のように国民皆保険で一度保険適応が認められれば、風邪に抗生剤も出せるわけですから(笑)、「エビデンス」なんて偉そうに言う必要はないと思います。


「エビデンスがある」といっても、たとえばマスクに予防効果があるというエビデンスもあれば、有意な予防効果はないというエビデンスもあります。
2019年までは、2020年の2月までは東京都医師会だって「マスクに予防効果はありません。咳などの症状のある人がつけてください」と言っていたわけで、エビデンスなんて固定化された万全なものではありません。
時代とともに新たな知見、研究結果が出るわけで、またどんな科学雑誌に、どんな研究が審査を通過し認められるかなども、最終的には人間が行っていることですから、そこに組織の論理や心情、お金が入る余地があるといえます。


エビデンスという言葉が専門家以外の一般人まで浸透してきて、日本人はますます思考停止に陥っているといえます。
「マスクは予防効果がある」というから自分はマスクをつける。
「ワクチンに予防効果がある」というから自分はワクチンを接種する。
「飲食店が危険」というから自分は飲食店を避ける。
そこに自分はマスクをつけることで、どのような感情、心身の変化が生じるのか、もっといえば、どうやって今日一日を生きるか、自分の健康や自由を守っていくか、そこがぽっかり抜け落ちてしまったような気がします。
大の大人が外でマスクをつけて歩いている姿を見ると、まるで生きた屍が歩いているようです。
彼らに人間としての活力を感じません。


エビデンスという言葉が浸透するまで、欧米の何でも数値化してしまう文化が入ってくるまで、日本の価値基準はより自然なもので、もっと尊いものだったと思います。
自然が豊かで、四季のある土地に住み続けてきた日本人。
同時に、常に自然災害と向き合い、超自然的なものを感じながら生きてきた日本人。
それは子育て観にも表れていて、欧米では「野獣である子どもを人間に育てる」でしたが、日本は「子どもは神の子」と言って大人が教えるのではなく、子ども同士で育ちあうことを良しとしてきました。
大人だって自然の声を聴きながら、また「お天道様が見ている」「ご先祖様が見ている」という具合に、物理的な価値観よりも、そういったものを大事に生きてきたといえます。


特別支援の世界はもろ欧米文化ですので、ボーロで釣る行動療法があったり、泣き叫ぶ子は問題行動として無視したり、なんでも一人(個人)で完結させるような支援が展開されたりします。
個別化だって行きつく先は、定型・社会との分断であり、隔離です。
でも、こういった特別支援で展開されていることは、本当に子ども達が幸せになるのか、日本という社会の中で自由に生きられるのか、疑問に思うのです。


私が米国の教授からトレーニングを受けたとき、「見えないものは評価しない」と教わりました。
つまり、なぜ、泣き叫んでいるのか、そこに本人の心情や感覚的な側面は考慮せず、泣きやむ状況を作るために環境を変える、ということです。
どのような環境にするかは目で見て評価できます。
環境、自然を征服することで生きてきた欧米人らしい発想だと私は思いました。


親御さんの中にも、家庭の中に特別支援を取り入れることで、悩み、苦しんでいる人達がいます。
この前も、床に倒れて泣きじゃくるのを専門医、なんとかセンターの人に相談したら、「薬を処方しましょうか」「そこで声をかけたりしたら、問題が大きくなるだけだから、何もせず無視していてください」と言われたというご家庭がありました。
専門家が言うことだからといって、最初は無視していた親御さんも、心が辛くなって抱きしめてしまったというお話でした。
このお母さんには、子どもさんが何を訴えているか、わかったんですね。


このエピソードを文字で読まれた方は、このおかしさが分かると思います。
しかし実際、同じようなことは、それこそ「専門家」「エビデンス」という名の元に親御さんは教わり、家庭の中に浸透しているのです。
ノンバーバルの子がお母さんのそばに来て、なにか訴えた。
そのとき、絵カードを持ってきて、これを使いなさいと教えるご家庭。
でも、大事なのは、「なあに?」と応答したり、子どもが訴えていることを察しかなえてあげることではないでしょうか。
泣き叫んでいる子がいたらギュッと抱きしめたり、その子の内側にある感覚的な不具合を想像し、そこを育てていこうとすることではないでしょうか。


私は日本の教育、子育ては、もっといえば発達援助は、この目に見えない感覚的なところを育んでいくことが強みだと考えています。
いろんなご家庭の発達相談をしていますが、トレーニングのように「〇回やったら終わり」「〇回できたらご褒美」というのは、どうも馴染まないし、発達のヌケを埋めていくことに繋がらないような気がします。
それよりも、本人の内側にある楽しい、嬉しい、心地良いという「快」から始まるような方法のほうが、土台から直り、育っていく印象があります。
もともと自然豊かな環境、自然とともに生きてきた私達ですから、自然という多様な(発達)刺激に溢れる環境を活かした発達援助が馴染むし、本人の豊かな育ちに繋がると思います。


今日、ラジオ(【No.99】卒業式の「ハイ」)を配信したら、すぐにお返事をいただきました。
「涙が止まりません。なかなか、先の見通しがつかず、試行錯誤の日々ですが、私達の目標はもっとずっと先に合って、いつか自立して楽しく幸せに暮らせるということなのだろうと改めて思いました。今、することが、今すぐに結果に繋がらなくても寄り添い見守り、できることを保護者と共有していくことが私達ができる最大のことだと思いました」
保健室の先生からのまっすぐな感想です。
この文章を読んだだけで、この先生が本気で子ども達と向き合ってきたのが伝わってきます。


エビデンスが評価、結果をより短期的なものに縮めているような気がします。
でも本来、教育、子育てとは今すぐに結果が出るようなものでも、何か尺度があって良しあしを評価するようなものでもありません。
今、関わっている子ども達に本当に私の発達援助が意味あるものだったか。
それが明らかになるのは、10年も、20年も、もしかしたらその子が大人になったとき、親になったとき、人生を終えるときにしかわからないかもしれません。


ある意味、短期的な結果が出るということは対症療法でしかなく根本は変わっていない。
ときに見せかけの成果を本当の成果として錯覚してしまう危険性がある。
マスクやワクチンの弊害、身体アプローチ、発達援助の効果は、未来にならないとわからないものです。
ですが、その未来を見据えて、それを想像しながら今を行動することが大事ではないでしょうか。
子ども達に何を残すか、次世代の人達にどんな社会を引き継いでいくか。
私は「治る」こそ、正しい道だと胸を張って言えます。
どう考えても、治さない、治そうとしない、治すことを否定する支援、療育は、ギョーカイ、支援者を潤わせるための手段でしかないと思います。
「発達障害」というレッテルが、子ども達が、一部の人たちの利権になっている現状。
私は何を言われようとも、そこと闘い、一人でも多くの子ども達が100年時代と言われる人生をより豊かに、より自由に、より幸せに生きていってもらいたいと願っています。




【新刊『ポストコロナの発達援助論』発売のお知らせ】
北海道から沖縄まで、全国の書店に並びました。店頭でのご購入もよろしくお願い致します。
出版元である花風社さんからのご購入はこちら→https://kafusha.com/products/detail/56
Amazonでも購入できます。

前著『医者が教えてくれない発達障害の治り方①親心に自信を持とう!』もどうぞよろしくお願い致します(花風社さんのHPからご購入いただけます)。全国の書店でも購入できます!ご購入して頂いた皆さまのおかげで二刷ですm(__)m


コメント

このブログの人気の投稿

【No.1376】根本から治したいなら、これくらいやる必要がある

【No.1390】20年間、この世界に身を投じてきた私の結論

【No.1407】援助・支援・余計なお世話