【No.1247】集団だからこその学び合い

教室で陽性になった子が出たようで、でも、濃厚接触者はいないという判定が出たのに、なぜか家でオンライン授業を受けている息子。
まだ小学生だからかもしれませんが、お遊びにしか見えませんね。
双方向のやりとりは無く、ただ先生の授業を聞いて課題をこなしている。
これだったら録画した動画で良いのでは。
これだったら全国で一番上手な先生の授業を録画して、それを見て勉強すれば良いのでは。
なんなら民間のように学習用のアプリで各自勉強した方がよっぽど身につくと思います。
知識の伝達という観点から公教育を見れば、すでにその役割は終わったのかもしれません。


本来、学ぶとは自分の人生を豊かにするため、将来の自立のために行うはずです。
しかし戦後GHQの介入により、二度と欧米に刃向かわないような、そしてコントロールしやすい国民、日本を作るために、一方的な知識の伝達が公教育の中心となりました。
伝統的な日本の教育とは、藩校や寺子屋で喧々諤々と先生や同士が議論し合いながら主体的な学び。
反実仮想を考えさせる薩摩藩の教育は有名ですし、とにかく自分の頭で考えることが学習の中心だったといえます。
まさにそれが明治以降の近代化、経済成長、技術革新の土台になったのだと思います。
まあ、だからこそ、アメリカ政府は日本と戦っている一方で、敗戦後の日本の教育をどのようにしていくか計画をたてていたのだと思います。


普通級か、支援級(支援学校)かを選択する際、「支援級は個別指導が受けられる」ということがおすすめポイントとして挙げられます。
療育の先生も、発達障害の専門医も、また学校の先生も、個別指導、1対1の指導が良いと言われます。
でも本当にそうなのでしょうか。


個別指導と聞くと、「その子のペースに合わせて」とか、「先生がその子だけを見て指導してもらえる」とか、「一斉指示では難しい分、1対1なら集中しやすい」とか連想されることが多いと思います。
確かに教室のような雑多で刺激の多い空間では、その刺激に負けてしまい授業に集中できない子もいるでしょう。
先生が目の前にいて、その子に注意を向けて指導してくれる方が理解しやすい子もいるはずです。
そうやって知的障害を持つ子や自閉症の子などは、個別指導が良いと私自身教わってきたことでもあります。


今までずっと個別指導に始まり、少人数がこの子達には良いのだ、良い環境だという認識で進んできたと思います。
支援者も特にその意図、理由を考えることなく、そう言ってきたといえます。
でも、前提が変わりました。
まず普通の教室、刺激の多い空間で学べないのは、その子の特性ではなく、感覚の未発達でそこはあとからでも育てられるよね、となりました。
また母子分離不安、愛着のヌケ、胎児期の愛着障害からの他人、世の中に対する漠然とした不安感も育て直せます。


つまり、前提として感覚過敏や一斉指示がわからないというのは特性ではなく、未発達で育てられる領域になりましたので、そこは個別指導云々の話ではないよね、となります。
感覚過敏が治らないから1対1の学習が必要で、少人数が望ましいというのは固定化された話ではなく、一時的な話です。
未発達が育つまでは支援級が良いかもしれませんが、そこが育てば、普通級、集団での学びでも良いわけです。
むしろ、刺激の豊かさ、主体的に考えて学んでいくためには、他人との関わり、双方向的なやりとりが必要になります。
根本的な課題である感覚過敏、愛着障害を治さず、そこは見ず、自動的に個別指導、少人数となってしまっては、中には失ってしまう学習体験があるような気がします。


また教室を飛びだす子、問題行動がある子、不登校気味の子、家庭に課題がある子も、支援級など個別指導ができる環境が勧められる場合もあります。
これは建前では「本人のために」となりますが、教室にいるその子以外の生徒と先生を守るためというのが本音だといえます。
何故なら、これまた根本の課題と話が違うから。
1対1の個別指導で問題行動は治りますか?治せますか?
他人との関係性の中での問題行動は、関係性の歪みですから他人との中でしか軌道修正することはできません。
根っこが家庭と繋がっているのなら、それこそ、普通級でも、支援級でも一緒です。


そもそも日本の教育には個別指導の概念はありませんでした。
つまり、1対1、個別指導も輸入されてきた概念です。
最初、教育の対象から外れていた自閉症の子ども達。
だけれども、アメリカの親御さん達と専門家が協力し、どうやったらこの子達にも学習の機会が与えられるか研究し、考え付いた形が個別指導でした。
個別指導で身につけたことを少しずつ他の場面へ、1対1から3人という小集団へ、というのがコンセプトです。
もちろん、その土台には個を重視する教育、思想の流れがあったといえます。


欧米の言うことはすべて正しい、そして日本人は常に欧米よりも劣っている。
そういった教育を植え付けられた日本人は、無条件に輸入されてきたものを有難がる傾向があります。
ワクチンだって、アメリカではもう打っていないものを、日本人は有難がり、せっせと3回目の接種に進んでいます。
個別指導の形だって、その経緯も、背景も知らず、調べず、とにかく自閉症児には個別指導!と突き進んでいます。
一方で寺子屋のように身分や年齢にとらわれず、いろんな若者たちが切磋琢磨しながら、お互いで刺激し合い、自らで考え行動できる力を培っていきました。
そもそも奴隷や階級制度がない日本ですから、欧米人が「多様性」なんて言う前に、というかそういった概念がないまま、差は差として認め、同じように学んできたのが日本の教育。


同じ公園なのに、児童デイに通っている集団はその集団内で遊び、普通級の子ども達はその子達同士で遊んでいる姿。
そんな子ども達を見ると、人種によって生活空間を分けている海外の姿が重なります。
学校をみても、どうも普通級と支援級の境が年々はっきりしているようにも感じます。
もっと私達が子どもだった頃のように、いろんな子が教室にいて、子ども同士で刺激し合い、学び合える環境が良いのではないでしょうか。


支援級や支援学校、とくに個別指導、少数人数の環境が中心となっているご家庭には、子ども同士、集団の中で活動できる機会を作ってもらえれば、と思っています。
支援級に通っていた子で、児童デイも小集団のところだった。
親御さんも「小集団こそ、この子に最適な環境」だと考えてのことでした。
しかし、感覚過敏を育て直していくと同時に、児童デイを辞め、地域の習い事に通うようになりました。
すると、自分の好きなことを通して、そこを交流の窓とし、集団の中で伸び伸びと活動していく中で、言葉が出るようになり、他人を意識した行動ができるようになっていきました。
他にも自制することが難しかった子が、集団活動の中で我慢することを見に付けていったり、他の友達を見て年相応のマネするようにして覚えていったり。


こういった子ども達の成長の姿を見るたびに、周囲が「少人数」「個別指導」「集団は無理」といった固定概念を持つことが、却って子ども達の豊かな学びを阻害しているかもしれないと思うのです、それは定型発達の子にとっても。
教育の本質は双方向の学び合いですね。




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