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【No.1498】~花風社夏祭り2026~第二部の話

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花風社の浅見さんから「新しい著者の方との対談を」というお話をいただいたのが、6月でしたね。 療育整体の自律神経編を出版されたとき、「もうこれでやるべきこと、出すべき本、知見は世に出せた」という浅見さんのお気持ちを聞いていましたので、私はもう新刊は出ないかもな、なんて思っていました。 そんな中での新刊に取り掛かる話、新しい著者の方との対談の話が来たのでびっくり。 またそういった気持ちを変えさせるくらいの知見なんだと期待が膨らみます。 で、浅見さんと纐纈さんとの打ち合わせに臨みました。 事前に資料を貰っていて目を通しましたが、私の中では「浅見さんの気持ちを変えさせた」前提ですので、有益なのはわかるけど、その凄味みたいのまではわかりませんでした。 昨晩も触れましたが、構造化と行動療法の2本槍でなんでもかんでもエイヤーでやっていたところに、花風社さん、浅見さんが身体アプローチを見つけ、確立、そして今ではスタンダードになるくらいまでになった。 その延長線上に療育整体があり、今回の纐纈さんの知見と実践があって、本になるんだな、というのが打ち合わせ後の感想でしたね。 そして昨晩、講演会が始まります。 私はいつも通り、「なるべく鮮度が良いものを」という姿勢で、20時から始まる講演会の2時間くらい前から話すことを考え始めました。 もちろん、対談のお話をいただいてから、纐纈さんの知見、対談相手が務まるようにこれようの勉強と準備はやってましたよ。 古い資料を引っ張り出したり、本棚の前で眺めながら「これだ」というものを読み直したり。 とにかくインプット、インプット、インプット。 たくさんため込んで、直前に一気に吐き出すという感じです。 で、そんな感じで講演会に臨み、纐纈さんの話を聞いていると、「浅見さんの気持ちを変えさせた」凄味、意義がどんどん伝わってきたんです。 私は身体のプロではありませんので、栗本さんの知見も、療育整体と纐纈さんの実践も、大きな違いがわかりません、実際は。 大きく括れば、西洋一辺倒のハッタツの世界に入ってきた東洋的な知見たちという認識でしたが、ポイントはそこじゃなかった。 技術、やりかたの違いじゃなくて、もっと大きな違いがあった。 それは一人称のアプローチであること。 つまり、当事者、本人の目を通した、身体の内側から求められる要求に対する技能ということです。 支援する...

【No.1497】「強度行動障害への支援を国に訴える」?

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全国で12万人「強度行動障害」自傷を繰り返す我が子のため福祉サービスを始めた母...その思いに迫る(メ~テレnews|2026/7/30) を視聴しました。 明日の講演会の内容に繋がります。 どのようにつながっていくか、は当日、アーカイブ視聴のときに確認してくださいね。 「強度行動障害っていうのは知っているけれども、実際、そのような人に関わったことがない」という方はご覧になると実態が掴めるかもしれません。 で、今回の講演会のメインである纐纈さんがどのような視点で、どのような身体の手当てを提案されるのか楽しみですね。 10分ほどの映像でしたが、思うことは多々あり…。 でも講演会の話の展開によっては今はお口チャックで(←昭和の表現)、別の話を。 YouTubeで視聴したため、おススメに同じような内容がいくつか上がるようになりました。 深夜のドキュメンタリーで視聴したものもありましたが、初めて見るものもありって感じです。 そんな中で気になったのが「強度行動障害への支援を国に訴える」というワード。 国民みんなが幸せを求める権利があるのですから、強度行動障害を持つ子も、家族も、同じような権利を主張するのは当然でしょう。 がしかし、国の制度として、インフラの不備によって強度行動障害の人達は幸福を求められないのか、それが阻害されているのか。 別の見方をすれば、国が何をすれば強度行動障害の人と家族は幸福を求められるのか。 国にできることって、予算を作って直接的な金銭的な補助をしたり、支援サービスが利用できるようにしたりすることくらいしかないと思う。 年間に数十万円振り込まれても、部屋の補修とか、移動のガソリン代とかで、それで強度行動障害自体は良くならないでしょう。 支援サービスも、移動支援、余暇支援、相談支援など、こちらも直接的な症状の軽減というよりも、生活の質の担保がメイン。 これって強度行動障害の人を支援していることといえるのかな。 本人たちからすれば、補助金が出たとか、強度行動障害の認知が広がったとか、そこじゃないよって言うと思う。 まずこの苦しみを和らげてほしい、楽にしてほしい、というのが心からの願いでしょ。 そこに応えられる支援者、援助者、専門家がいないことが問題。 だから、本人がもがき苦しみ、最悪にならないための下手くそな対処法しているに過ぎないんですよ。 自傷は自らを...

【No.1496】失敗を誤差信号にできるかどうか

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「自閉症の人に失敗をさせてはいけません」 支援者は頷き、親御さん達は涙を流していましたね。 日頃、怒られることも多いし、自分が怒ることも多い。 そんな自分に対する嫌悪感を抱きながらの毎日に、「失敗させない」は「怒る必要がない」「もう怒らなくていい」と変換されたり、「もう無理はさせない」「できることをやらせて、自己肯定感を上げよう」と変換されたりしたんでしょうね。 事実、高機能、普通級にいた発達障害の子ども達にはこれぞといった支援ってなかったから。 2000年代、高機能ブームで一世風靡した有名支援者があちこちで言ってました。 で、その同じ流派、お弟子さん達が各地に散らばり、「失敗させない教」の布教に努めてた。 私は耳にしなくなったけど、まだそういった主張をしている人達っているのかな。 なぜ、失敗をさせてはならないのか。 その理由は、「自閉症の人達は忘れることができないから」と言ってましたね。 失敗したことが頭に残り続けるため、何度も自分自身を傷つける。 だから自己肯定感が下がって、二次障害に繋がるって主張でした。 まあ、この有名支援者は当時主流のアメリカ系ではなく、イギリス系だったから、そういったことを英国で教わってきたんだと思うんです。 ただ気を付けないといけないのが、この有名支援者の愛着障害はかなり複雑で重かったこと。 イギリスから戻ってくる飛行機の中で変換、脚色、そもそも受け取り方にバイアスがかかっていた可能性があるね。 じゃあ、当時、若手だった私自身はその主張をどう捉えていたのか。 トレーニングを受けて函館に戻ってきて、学生時代から仲良かった親御さんに話したら、「うちの子、何度言ってもすぐ忘れるよ」って(笑) 記憶の特性として、パソコンがすべてのデータを記録するように記憶するっていう意味じゃなくて、失敗した理由や意味、何が悪かったのか、どうすればよかったのか、がわからない場合、強い叱責が感情的に処理できず、トラウマのようになりやすいってことじゃないかと思うんです。 そこを端折ってあちこちで「失敗はさせてはいけません」っていうもんだから、間に受けた人たちがたくさん出たって話、結局は。 で、今日の話になるんだけど、失敗はさせたほうがよいよね、たくさん。 その失敗経験も、人生の糧になるからね。 それに失敗というのは脳を育てるし。 うまくいかないことがあると、大脳に誤...

【No.1495】「私の専門は発達障害児の親です」

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「私の専門は発達障害児の親です」というような親御さんっているよね。 発達障害を持つ我が子を育てる、が生活のすべてで、人生そのもので、生きる目的になっているような。 そんな人は、子どもの変化、反応に一喜一憂して、なにか問題が起きるとガクッときちゃう。 ひどい場合は「もうだめだ」「諦めるわ」と立ち直れなくなる人もいて、親御さんのほうがうつ病などを発症するケースもある。 こうなると、発達援助という話どころではなくなるね。 どうしてこんな風になるのかな、と長年考えてきました。 一番は「頼ったけど、期待を裏切られた」という経験の積み重ねかなって思う。 医師のところにいけば、治すための治療やアドバイス、それができなくても改善する工夫や方法なんかを教えてくれると思ってた。 だけど、診断して終わり。 で、「発達障害は治らないし、生涯にわたる支援が必要」と親の、家族の希望を打ち砕く。 療育機関に行っても、根本から変わるわけじゃない。 学校も、福祉も、できることは限られている。 となると、親御さんが抱え込むしかなくて、必然的に親子が一体化しちゃう。 「この子を守れるのは、育てられるのは私しかいない」と。 あともう一つの背景は、「ああ、援助者の影響か」ということ。 援助者の多くは仕事として関わっていますよね。 仕事としての援助。 だから、関わっている子ども、人が成長したり、改善したりすると、それが喜びに繋がる。 一人でも多くの発達障害者に良い援助ができることが目標になったり、生きがいになったりする。 で、そのテンションで、その姿勢で親御さんと面談や助言を行う。 「発達障害を改善することこそ、もっとも価値があることなんです」って。 こういう援助者が多いんじゃないかな。 援助者というよりも、技術者、サービス提供者、支援のための支援者といえるかもしれないね。 支援マニア、オタクも交じってると思うけど。 こういう人達はほんとに困ったもので、親御さんの人生を狂わせちゃっていることもあるな。 発達障害を持つ我が子を育てる以外の生きる目的がなくなってしまったら危ないの。 当事者の人との発達相談では、発達障害の治療や改善が人生プランにならないように気を付けるのが基本となってるんですよ。 治療や改善から切り離された生きがいや目的、自分の人生プランをもてるように援助することがもっとも大切なことなんです。 だ...

【No.1494】発達相談は検討会

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ついこないだ『ブラタモリ』で熊本城が出てたよな、それを見たばっかりだな、と。 10年前の被災からの熊本城を復興させようと現場で汗をかいている人たちの姿が印象的でしたね。 もう一度、石を一つずつ積み上げていた石垣が再び崩れる様子を見たら辛くなった。 各地域にはそこを象徴するような山や建物があって、ひとはその大きな存在に守られているような、「ああ、私は今日も共に歩んでいる」というような気持ちをいだくもの。 熊本に住む人たちにとって、その一つが熊本城だったと思います。 今回、亡くなられた方が多数いたと知りました。 心よりお悔やみ、お見舞い申し上げるとともに、暑い中での生活、また復興に携わる方たちが体調を崩されませんようお祈りいたします。 このような大きな災害が起きると、物質的な支援、金銭的な支援、人的な支援が必要ですし、今回も地震発生後数時間で次々と支援が行われていた日本はすごいと思いますね。 日本アゲの意味ではないですが、同じような地震が起きたベネズエラでは1か月経った今でも建物も、そこに住む人たちの生活も、発生時そのままで復興へ歩き出せていない状況があります。 ただ復興(支援)では違いがある両国だけど、映像から伝わってくる“共に歩む”という気持ちの面では変わらないと思います。 被災した人たちに心を寄せ、自分にできることをする、いつもの生活を崩すことなくやるべきことをやる。 発達相談における大原則として、「それは仮説である」というのがあります。 親御さんから、または本人から「この問題、どうしたらいいんでしょう。なにか方法はありますか?」と相談される。 で、私は本人のアセスメントから、また過去に関わってきた人たちからの経験と、過去に学んだ知識、技能から、「こういった方法がありますね」と返す。 でも、これは“答え”ではなくて、“仮説”なんですね。 あくまで、「いま、この時点で考えられた仮説の一つです」という話。 この仮説がご神託のようになったらまずい。 なにがまずいかといえば、与える者と与えられる者の関係になっちゃうこと。 もちろん、100%その人に合ってて効果があるといったことはないし。 大事なのは考えられた仮説をテーブルの真ん中に置いて、親御さんと本人と援助者みんなで眺めながら検討すること。 「いま、先生はこういったけど、私が日頃見ている感じでは、ここをちょっと変えたほ...

【No.1493】翻訳機みたいな援助者

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私が通っているお店、個人でやっているところなんだけど、そには海外からの観光客もよく来ています。 欧米の白人系の人も見かけるし、アジア、黒人の人も見かけるよ。 そんな海外からのお客さんがやってくると、店主は同時通訳の機械を取り出して、パパっとコミュニケーションをとるんですね。 訊いたらいまのは通訳のスピードも、正確性も向上しているんだって。 以前のような不自然な日本語訳みたいなのもなくなって、「これ一台あれば大丈夫」って言ってた。 同時通訳、翻訳の機械が登場してもう10年くらい経つけど、いまはスマホのアプリにもなるくらいまで広がって、もちろん、中学生、小学生の息子たちも使っていますね。 英語が苦手な上の子は「アプリがあるから、もう英語勉強しなくていいんじゃね」なんてブーブー言ってる。 たしかに私たちのときのような受験のためだけの英語だったり、道具としての英語、外国語はもうアプリで良いかな、と。 でも、やっぱり言葉は道具だけど、海外の言葉を身に付けることはいろんな人との物理的、心理的なつながりを持つことができる良いものだと思う。 いくら同時通訳が当たり前の世界になったとしても、人と人との感情の交流、共感したり、ときに意見をぶつけ合うようなことってなくならないし、その価値は永遠なはず。 AIがどんどん進化を続け、特別支援の世界にも入ってくる。 で、診断はアプリ、脳の機能、働きはリアルタイムでデータをとってAIが分析してくれる。 そして極めつけは、今の状態ならこの方法が有効でダウンロードはこちら、で、画面を通じてモニタリングもしてくれて、今のやり方はちょっと違うとか、今日の達成度は96%とか、トレーニングのリードと評価をしてくれる。 もしかしたらトレーニング自体も必要なくなって、脳に直接、刺激を与えて治療する方向になるかもしれない。 診断から治療の自動化。 支援学校から福祉へのベルトコンベヤーよりはずっといいけど。 治すのはお任せで、治ったら子育て始めます。 良くいえば、役割分担。 悪くいえば、育児放棄。 ここは考え方だけど、「発達障害を治す」のは日常生活から切り離すことができるのだろうか。 私自身も「治療」や「リハビリ」という言葉を使ってる。 でも、子育て、その子を育てていく中で、その範囲内での治療だったり、リハビリだったりだと思っている。 治療“的”な子育て、リハビリの...

【No.1492】自立しない改善

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発達障害に関わる人たちの職種がバラエティーに富むようになりましたね。 20年前は学校の先生とお医者さんと福祉の支援者くらいなものでした。 そこに理学療法士なんか参入してきたときには、みんな、おっと思った。 それがここ数年で整体師さんや鍼灸師さん、音楽家や芸術家、発達障害専門の学習塾、家庭教師という人達も目立つようになってきて、で、今では人を通り越してAIまでもが援助に携わるようになってきた。 発達障害はどんどん増え続けるもんだから、「普通子対象よりもここに商機あり」という感じもあるんじゃないかな。 まあ、選択肢が「養護学校か、特殊学級か」「卒業後は福祉一本」の時代よりはずっといいと思う。 援助者が増え、親御さん達にとっては選択肢が増える。 だけど変わらないことがあって、それは「藁をもつかむ」気持ちでしょ。 援助者が増えようが、選択肢が増えようが、親の気持ちとしては「なんでもいいから、少しでも楽になる解決方が知りたい」は変わらない。 その想いが子育てに対する意欲の源泉。 目の前にそんな親御さんがやってくる。 で、「私たちにお任せください」となると、援助者自身が藁になっちゃう。 そこが今の問題じゃないかな。 商売的には「何か良いものが提供できるかどうかわかりませんが…」とはいえないから、そんな風に言葉や態度で示しちゃうんだけど、そこは一般の商売、普通の子のうちとは違って注意すべきだね。 一般の家庭のほとんどは、「藁」だと思ってやってきてない。 まあ、金額に見合う成果が得られれば、ちょっとでも成長や楽しい時間が過ごせれば、というのがほとんどだと思う。 藁になった援助者は知らず知らずのうちに、親御さんの意欲を吸い取っていく。 依存的な親が増えたし、依存的な親の子は治らないし。 だけど、その状況を作ったのって、援助者側だったりする。 サービスを提供しているつもりが、相手は藁だと思っていたというズレ。 新興宗教が年にどのくらいできているか知らないけど、ナントカ法の教祖と信者はあちこちで生まれているね。 「これさえやれば、この子は発達できます」は信じる者は救われる世界。 「藁をもすがる思い」でやってくるんだから、私は「決して藁にはならないぞ」という想いで援助者を続けてきました。 だって最悪のパターンで「大久保の言う方法は正しい」「やってみたけど成果が出ない」の次は必ず「この子が重...

【No.1491】彼らの声を聴く

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やまゆり園の事件が起きて今日で10年。 被害に遭われた方たちのご冥福をお祈りいたします。 そして加害者側の植松死刑囚は10年経った今も、当時と同じような言動を繰り返しているとのこと。 やはり「異常者が起こした異常な犯罪」となるのでしょうか。 「異常者が起こした異常な犯罪」となれば、たまたまその場に居合わせた、防ぎようがなかった、諦めざるを得ない、といった言葉が続いていきます。 また自分たちとは違う異質な存在、狂人、モンスターと切り分けることで、ほとんどの人間にとって事件は自分たちと繋がらない、ごく限られた世界の、限られた人たちに起きた他人ごとになってしまう。 もしあの事件が地域の小学校で起きたら。 もしあの事件の被害者が健常者だったら。 もしあの事件が人里離れた郊外ではなく、中心街で起きていたら。 きっと多くの人達の受け止め方も、社会に与えた影響も違って、これを機に社会システムは大きく変わったと思う。 障害を持った人たちに「生産性がない」と発言するのは間違い。 でも仕事では人に対して生産性が高い、低いというものさしが使われている。 で、それは若者、子ども達にも広がり、「コスパ」「タイパ」という言葉はこの10年間で当たり前に使われるようになった。 私達の社会は低コストで、より多い利益を求めている。 このように考えると、やまゆり園の事件は我々の社会と陸続きになって自分事になる。 ここ数年、療育、支援、様々なアプローチの中にも、「コスパ」「タイパ」の流れ、傾向が強くなってきていると感じます。 できるだけ短期間で成果を出したい。 できるだけ手をかけず、子どもの成長や発達を感じたい。 以前の親御さん達から感じていた親心、「この子の辛さを少しでも早く和らげたあげたい」との違いです。 発達障害は治ったほうが良い。 じゃあ、発達障害は早く治った方がいいの。 できるだけ手をかけず、効率よく治したほうがいいの。 みなさんはどう考えるでしょうか。 「発達障害」ならできるだけ早く、効率的に、となるでしょう。 でも、「発達障害を持った子」なら、どうなるでしょうか。 じゃあ、「我が子」なら、「〇〇くん」「〇〇ちゃん」なら。 やまゆり園の事件では被害に遭った方たちの名前の公表がされないことがありました。 被害に遭われた「Aさん」「Bさん」「Cさん」…。 「治りたい」「成長したい」「できるようにな...

【NO.1490】自閉症と筋トレ

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パターン的な動き、一定のリズムを刻む動きは、心身を癒します。 反対に複雑な動き、強弱が入れ替わる動きは脳に負荷を与えます。 だけど、その負荷は悪いものというものではなく、むしろ脳神経を刺激し、発達に繋がることもあります。 くるくる回ったり、手を叩いたり、飛び跳ねたり。 そんな自閉っ子を見かけたとき 「これは癒しの時間だな」 「それを行うことで、どんな負荷に対処しているのかな」 「そのパターン化された動きにちょっぴり広がりを持たせられないかな」 この3段階のイメージが膨らんでいければ、良い援助者になると思います。 「運動は脳にも良い」 そんな認識が広がりましたので、「どんな運動が合ってますか?」「どんな運動を我が子にやらせれば?」と相談されることもあります。 マラソンや水泳を子ども時代から継続している自閉症の人はよく見かけます。 球技やダンスなどと異なり、直線的な動き、パターン的な動きは相性が良いのでしょう。 市のプールなどで見かける障害を持った人たちのサークル活動、日中活動ではみなさんの柔らかい表情が印象的です。 日頃、刺激だらけで疲労しきった脳にとって癒しの時間です。 しかし、先に入っている私よりも、後から来てさらに先に上がっていく様子を見るたびに「もったいないな」と思います。 癒しの効果だけじゃなくて、脳神経を発達させる視点もあったらな、と。 運動すると乳酸が溜まると言われています。 筋肉で生成された乳酸は血液脳関門を突破することができ、脳の神経細胞のエネルギー源になり、さらにエネルギーとして消費されるだけではなく、脳神経の働きを調節したり、新しい脳神経を作るきっかけになったりするのです。 ですから、できるだけ乳酸が出るように、もっと時間を伸ばしたり、泳ぐといった筋肉活動を増やしたりしたら良いのにな、と思うのです。 「運動全般が苦手」 「走るのもイヤ」 でも「なにか運動したい」という大学生の自閉症の若者がいました。 一緒に散歩をしたり、ヨガやストレッチなどをしましたが、どうもこれじゃあ、刺激として足りないな、と思い、筋トレを勧めたことがあります。 力を抜くことが苦手で、身体をギュッと固めるのが得意だからというのもありました。 もともと細い子だったのでムキムキにはなりませんでしたが、自分でダンベル買ったり、YouTube観ながらスクワットしたり、結構な期間、続けて...

【No.1489】胎児期の愛着障害

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支援者に依存してしまう人っていますね。 当事者の人でも、親御さんでも。 「先生、どうしたらいいですか?」 「これで合ってますか?」 「次は何をしたらいいのでしょうか?」 ベテランの親御さん達は「ああ、愛着障害ね」って瞬時にわかると思います。 このギョーカイ、あるあるですから。 だけど、自分で調べて、自分で行動して子育てしている親御さんを見て、「あっ、愛着障害かも」と気が付く親御さんは少ないかもしれませんね。 「えっ、なんで、自立心のある人が愛着障害になるの」って思ったでしょう。 愛着をうまく形成していった先に“自立”があるって思うでしょ、普通。 もちろん、多くは順調な、時々、遠回りしながらも愛着形成がうまくいった人が自立した大人になるんです。 しかし愛着障害の人はちょっと違うんです、自立したときが。 最初にお話しした依存体質の人は生後に生じた愛着障害の人です。 依存は他者への甘えですから。 おなかの赤ちゃんは他者に甘えませんね。 他者への依存は依存先ができてから生じますし、つまるところ、関係性の、対人関係の問題といえます。 一方で自立心の強い愛着障害はというと、胎児期の愛着障害なんですね。 胎児期の赤ちゃんを想像してみると、お母さんのおなかの中で羊水にぷかぷか浮かんでいる。 自分の身を委ねてますね。 だけど、なんらかの理由があって、そのぷかぷかができなかったり、ぷかぷかが短かったりすることもあります。 そうすると、お腹にいる赤ちゃんは「早く自立しなさい」「早く自立しなきゃ、だって生きられないもん」となるんですね。 愛着形成が積み上がった先の自立じゃなくて、やむを得ない胎児期からの自立。 そういった胎児期からの自立の人は、子どもさんでもなんでもかんでも自分でやろうとしますね。 手を貸されるのを嫌がります。 知的障害の重い子ばかりの施設内でも、明確な違いがありましたね。 うまくいくいかないに関わらず、全部、自分でやろうとする子。 また大人の場合も、相談はするけど、手助け無用という人ですね。 そういった人の成育歴を辿れば、失敗続きの転んでは起き、転んでは起きの人生を歩んできたのが共通しています。 極端な場合は我が道を突き進み、周りは常に振り回され、という人もいますよ。 本人は困っていないけど(笑)、周囲が疲弊して相談のパターン。 いつから始まる愛着障害かを確認する方法は、...

【No.1488】感情の交流としての会話に癒しの効果がある

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私のキャリアの始まりは、言葉をもたない子ども達、自閉症の人達との関わりでした。 彼らが発するのは赤ちゃんのような「バババ」だったり、唸り声や奇声に近いものばかり。 私からの言葉掛けもどこまで理解できるのか、そもそも理解できているのか、わかりません。 20年ほど言葉中心で生きてきた私は、ひたすら彼らの行動を観察する日々を過ごしました。 あるとき、彼らが発している声から感情が読み取れるようになりました。 「そうか、言葉には意味を伝える面と、感情を伝える面があるのか」 無意味な発声としか認識できなかった私が、彼らの豊かな感情表出に気が付いた瞬間でした。 私が今も支援者、援助者でいられることの核には、この気づきがあります。 施設を退職し、今の仕事をしている中で、言葉を話す自閉症の子ども達、人達と関わるようになりました。 そしてどの子も例外なく、言葉による傷つき体験を抱えているのがわかりました。 大学に入学するような人でも、言葉は不便なもので、できれば使いたくないものであり、「外国語のようなもの」でした。 私達は言葉に情報だけではなく、感情を乗せることも行っています。 しかも場面や目的、相手に合わせて、情報を強くして感情を抑えたり、反対に情報を限りなくゼロに近づけ感情を中心に表現したりといったことを無意識に行っています。 この微妙な加減を瞬時に読み解くことが苦手なのが自閉症の人達です。 ですから、彼らが表現するときも、情報伝達の側面しか持たない言葉だったり、言葉にほぼ意味はなく感情を表出するためだけの言葉だったりするのだと思います。 言葉の意味だけの側面を見ても、発する人の体験や知識が意味の範囲を決めますので、受け取る側はそこを想像しつつ解釈する必要があります。 幼少期から運動面での不具合、感覚を中心とした体調面での不具合を抱えていることが多いため、自閉症の人達の体験や知識に偏りが生じています。 ですから知的障害がない人であったとしても、話をしていく中で、言葉の意味の範囲が狭いと感じることが多々あります。 とても限られた意味の範囲でその言葉を使っている。 そうすると、友達同士の会話にズレが生じたり、親や先生からの言葉を狭い範囲でしかとらえられていないので、いつも「聞いてない」と怒られたり。 さらに言葉には皮肉があったり、たとえ話があったり。 またもう一つの側面である感情を伝え...

【No.1487】行動を支援するのではなく、その行動をする本人を支援する

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通常なら、しない行動をする。 通常なら、もうしないであろう年齢でその行動をする。 ぴょんぴょん飛び跳ねたり。 独り言を言ったり。 急に飛び出したり。 誰でも彼でも触ったり。 そういった行動をやめさせたい、やめてほしいと願う。 それは共に暮らす家族にとって、他の子ども、ヒトがいる場で教育や支援を行っているものにとって、自然な気持ちだといえます。 しかし、やめさせようとしてやめさせるのはほぼ不可能です。 行動支援、援助などと綺麗な言葉でまとめていますが、現実はするための選択肢を排除しているにすぎません。 「施設ではやらないのに、家に帰った途端、行う」というのは施設に自由がない証拠です。 施設を見学すれば、看守のような支援者の姿に出会うことができるでしょう。 「強度行動障害に対する行動支援」という題名の講座はできても、実践はできないのです。 行動支援=行動をやめさせる、変容させる。 これが可能なのは、お互いに信頼関係があり、また行動を変える側に納得感が得られる必要があります。 そのためには当然、交渉に応じること、妥協点を探っていくための能力が必要です。 知的障害がある人、重い人に、また幼い子どもに、この能力が備わっていることは稀。 となれば、行動を変えてほしい側の一方的な交渉が進み、本人の納得が得られないまま、行動支援が始まってしまいます。 そこに本人支援の視点がありません。 行動を支援するのではなく、その行動をする本人を支援する。 それが本来の行動支援となります。 そのためにはその行動をする本質をつかむ必要があります。 行動は本人にとって必要だから行っているのです。 同じ飛び跳ねるのでも、一人ひとりその様相は異なっているということは、そこにその人個人の要素と行動を作り上げるまでの歴史、物語があるのです。 自閉症の人達のその行動にもがきの雰囲気を感じましょう。 自閉症の人の多くは内なる環境(発達の凸凹、感覚の違いなど)と外との環境(様々な刺激)の間で不快を中心とした生きづらさを抱えています。 その不快感、生きづらさを和らげるための自らへの援助活動として特定の行動を生む。 周囲から見て、その行動に異質性、独特さを感じるのは、それがかなりパーソナルな背景と繋がっているからです。 また繰り返し、繰り返しその行動をするというのは、その不快な環境が「私のそばにあり続けている」という...

【No.1486】わかるけど、わからない

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「自閉っ子は素直な子が多い」 と言われることがありますね。 実際、お会いする子ども達はみんな、子どもらしい純粋さを持っていると感じます。 ある程度、年齢を重ねても、中学、高校、中には大人になった人でも、素直な態度、言動が見られます。 それは「言葉の裏を読むことが苦手」だったり、「空気感を読むのが苦手」だったりすることが関係していると思います。 嘘をつく場合も、相手の視点に立った巧妙な嘘は苦手ですね。 そういった脳の情報処理の関係から、周りから素直に映ることもあるのでしょう。 正直者で、嘘が苦手な自閉症の人達。 だけど、彼らが言う「はい」という返事、言葉には気を付けなければなりません。 素直に「はい」と言うから伝わったものだと思っても、あとから同じ過ちをしたり、理解してなかったりすることがあって、それはどこのおうちでも経験済みだと思います。 「とにかく『はい』といえば、いいと思っている」 そんな愚痴がこぼれる日々を過ごしている家庭も少なくないでしょう。 これは子どもだけの話かと言えば、そうではありません。 大人でも、そして知的に障害がない人達でも。 さらにその「はい」という意味には深さがあります。 子どもさんがママの言っていることがわからないから、とにかく「はい」と言っておけばその場が収まるから、という単純な話ではないのです。 大人なら、知的に障害がないのなら、理解できる話の内容で、しかも自分の意思を表面することが難しくない場面でも、反射的に意に反して「はい」と言う、言ってしまう。 日常会話やメール、SNSなどでは自由に意思を発信できるのに。 じゃあ、なにが彼らに反射的な「はい」を言わせているか。 私も最初はわかりませんでした。 とにかく「はい」が本心からの「はい」ではないことは分かったのですが。 こういった人たちは小さい頃から周囲とのディスコミュニケーションが多くあったんだと思います。 言っていることがわからない。 相手の表情、ノンバーバルなコミュニケーションが読み取れない。 読み取れたとしても、同じ台の上に乗せて情報を整理して、意図や意味を解釈することが難しい。 言葉をそのままの意味で受け取っても、「そうじゃない」とネガティブな反応が返ってくることがある。 彼らは「わかるけど、わからない」といった体験をとくに対人関係で多くしてきたのだと思います。 さらに彼らは学習...

【No.1485】「ねえ、ジェミニ、エビデンスのある効果的な療育法を教えて」

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いつも行っているスーパーのレジが2か所を除いてすべてセルフレジに替わっていました。 もちろん、私は有人レジに並びます。 顔馴染みの昭和のお姉さまと会話するためにね(笑) 私の顔を見かけたら手を振ってくれるし。 世の中、セルフレジばっかりになったら、人に接客してもらえることが高級なことに感じるかもしれないな。 こぞってレジ打ちしてくれる店員さんのところに並んだりして。 やっぱり人は、言葉でも、言葉以外でも、交流しているし、それを愉しんでいるところがあると思います。 私の唯一の特技、資質と言える「おばさまと仲良くなるスキル」 小さい時から「あなたは気がついたら、知らないおばさんと仲良くなっている」と両親に言われてたし、妻も「おばさんの心をつかむのがうまい」と言います。 姉さん女房がそういうので私の特技といって間違いないでしょう(笑) 社会で起きているデジタル化、機械化、AI化の流れは、当然、特別支援の世界にも入ってきます。 近頃では脳画像を撮り、それを机に並べての発達相談も増えてきました。 発達障害や自閉症、ADHDや知的障害などの大きな括りではなく、「うちの子のここの脳機能が低下していて、こことここの繋がりが悪い」というように、個々の脳の状態を踏まえたうえでの相談、支援、援助がスタンダードになっていくでしょう。 「ねえ、ジェミニ、エビデンスがあって、効果的な療育法を教えて」なんてこともね。 そんな中、こういったデジタル化、AI化の流れに疑問を持つ親御さんから、「大久保さんはどう考えますか?」と意見を聞かれることがあります。 では一緒に想像してみましょう。 デジタル化された脳機能の状態をスマホやタブレットで共有し、治療プログラムを話し合いが始まろうとしている。 たぶん、特定の脳機能を刺激し、治療するのならすべて機械がオートマチックに行っていくでしょう。 そこの機械操作とモニタリングは医師や専門家が担う。 で、親御さんは病気の治療のように説明を聞き、同意書にサインする、というのが参加の仕方。 「あとは先生、お任せします」という流れです。 発達障害は治ったほうが良い。 だけど、「あとは先生、お任せします」で幸せになるのだろうか、親も子も。 遺伝的な脆弱性と環境の影響を受け、発達の遅れ、違いが生じた。 そんな発達に課題を持つ子が親と出会い、家族としての形、物語を紡いでいく。 ...

【No.1484】発達障害の「認知と診断」の広がりなら、とっくに頭打ちしているはずですが…

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2000年代、高機能ブームが起きました。 そして同じような時期に特別支援教育も始まりました。 「これだけ発達障害が増えたのは、世の中の認知の広がりと、診断を受ける人が増えたからだ」 それがギョーカイが出した結論です。 しかし当時から私はおかしいと考えてたんですね。 だって増加の仕方が、グラフなんか見ると、急激に上がっているんだから。 学生時代、ちょっと統計学も勉強してたから鋭角に上がり続けるグラフを見て、「単なる診断だけの問題じゃないな。もっと根本的なことが起きなきゃ、こうはならないな」なんて考えていました。 数年経過を見ていても、発達障害のグラフは上がりっぱなし。 認知と診断といった外的な要因なら環境が整えば、全国どこでもある程度、診断が受けられるようになったら、頭打ちするはずでしょ。 子どもの数自体は減っているんだし。 だけど、10年が経ち、平成が終わって令和になっても、一向に頭打ちなる気配はない。 というか、まだまだ勢い止まらずに増え続けている。 「スペクトラムだから、あなたも、私も、発達障害」なんていうフレーズもあったが、このままいったら、どの子も発達障害になるでしょう。 発達障害がない子の方が少数派。 1組が普通級で、2組、3組が支援学級となるのが近い将来で、「だったら、みんな、支援学級みたいに教育しなければ」となるのが孫の世代かな、なんてことを想像します。 発達障害が増えることに悲観していてもしようがないですね。 でポジティブな想像をしてみる。 社会の変化に真っ先に反応するのが子ども達だから、その影響が先に出るのが子どもだから、きっと今までの社会構造が土台から壊れ、新しい世界になっていくんだろう、と。 教育でいえば、明治以降、優秀な兵隊さんを作るために、全国どこに住む子も読み書きそろばんができて、指示通りにきちんと行動できるように仕立ててきた。 だけど、そういった均一の教育はもう、いや、とっくの前に役割を終えている。 だから一人ひとりの能力を伸ばすような、もって生まれた資質を最大限伸ばし、活かしていくような教育へと変わる必要があるでしょう。 江戸時代の寺子屋のような、実学を重視した、その子が学びたいもの、将来必要となる知識と技能を得るための教育。 学校という枠もとっぱらい、より自由に学べるようになっていく。 資格はあまり好きじゃないけど、「私はこの知識、...

【No.1483】発達援助の「手段」と「目的」

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環境調整とは、「本人の内側にある生きづらさ、困難を弛める方法の一つ」だと思います。 聴覚過敏がある子に静かな環境を用意する。 視覚過敏がある子に暗い場所を用意したり、掲示物等、視覚に入る情報を減らしたりする。 感情コントロールが難しい子に、落ち着くための個室を用意する。 こういった場所や空間の確保、調整のほかには、イヤーマフやサングラス、タブレット型のデジタル教科書などの利用と、見通しが持ちやすいように写真や文字でスケジュールを提示したり、音声言語の代替手段としてのコミュニケーションカードの使用したりといった補助的な支援も含まれると思います。 当然、「場所や空間の確保、調整」は周りの協力が必要ですし、負担も大きくなります。 そのため、必ず要望が通るわけでもありません。 それこそ、その場を共有する人たちとの合意や妥協といった調整が必要になります。 ですから学校など多くの人と共有する場所では、個人の範囲で行われる環境調整、つまりイヤーマフをつけるとか、デジタル教科書を使うとかが好まれます。 支援グッズにしてもその子がコントロールできる範囲での使用になるので同様です。 社会の理解を求める人たちから言えば、自閉症や発達障害の人達の生きづらさを軽減する配慮は「社会が叶えるべき当然の配慮」ということになるでしょう。 しかし社会はマイノリティの人達だけのものでもなく、昨今問題となっている過剰な配慮が逆差別、ほかの人の不利益に繋がっていることもあります。 少数派だから配慮されるべきなのではなく、共有する人たちでお互いが心地よくなるような、それぞれの自由を侵害しない範囲での前向きな合意形成が重要なのです。 「学校が悪い」「社会のシステムが悪い」と主張する人に限って、現実で関わる先生の気持ち、同級生の気持ち、日々顔を合わせる人たちの気持ち、そんな身近な社会の一員としての自然な気持ちを大切できていないと感じます。 18歳の壁を作っているのは社会ではなく、あなたかもしれない。 自閉症の人達に多く見られる感覚面の不具合、体調、自律神経の課題。 そういった生きづらさを弛める方法、養生と育てるための身体アプローチがあります。 たとえば過敏性が弛むこと、改善することで、教室という環境の調整が必要だったものが、個人の範囲で行える配慮で済むようになった。 イヤーマフが必要だったものが、耳を育てるアプロ...

【No.1482】素人時代良い援助者だったのに経験を積むと下手くそになる現象

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私は教育大卒で、私以外の同期のメンバーはみんな教員をやっています。 年齢は40代に入り、それぞれどのような経過をたどっているのかわかります。 「あの人は、センスあるな」 「あいつは箸にも棒にも掛からないだろう(笑)」 など、若い時分の私なりの感想が現実になったり、ならなかったり。 同様に支援者としてアドバイスを行ってきた人たちも初心者と言える段階から中堅、ベテランへと推移しています。 長年、どう表現したらいいか、どんな名前をつけたらいいか、迷っていることがあります。 それは素人時代の治せる人、発達&成長を後押しできる人が、どんどん真逆の方向へ進んでいってしまう現象です。 神田橋先生の書籍の中にもたびたび出てくる状態、変化ですが、名づけられていないようです。 どうして経験や知識が増えると子ども、当事者のためにならない支援者になるのか。 なんかいい名前ないですかね(笑) 支援級、支援学校に赴任した同僚たちは、「どう教育したらいいのか」「どんな力をつけさせてあげたらいいのだろうか」「そもそもコミュニケーション自体が難しい」といった悩みをもち、四苦八苦しながら日々を過ごしていました。 「自分はなにもできていない」と彼らはよく言っていたものです。 しかし外から見る私からすれば、その試行錯誤の日々の中で先生である彼らと生徒である子ども達がともに成長している様子を感じていました。 今振り返れば、そのとき、彼らが持っていたものは「子どもの身になる」ということだったのでしょう。 知識や経験がない分、目の前にいる子どもから情報を得、そして彼らの視点に立った教育、援助ができていた。 自閉症という診断名でも、知能指数がナンボでもなく、純粋にその子を見ていた。 まさに教科書がその子自身であり、その子のための教科書を作っていくことを行っていたのでしょう。 初めて赴任した支援級の先生、支援教育の免許を持たずに来た先生が担当した子が驚くほどの成長を見せた、というのはよくある話です。 知識や経験が増えると、最適化を求める脳は貯蔵した記憶からパターンを導き出し、「こういったタイプの子は、こういった教育が良いだろう」と進めて、ずれが生じてしまうこともあるでしょう。 知識が増えれば頭でっかちになり、子ども達のノンバーバルな発信に気がつけず、下手くそになるパターンもあるでしょう。 知識や技術を持てば使いたく...

【No.1481】医療側の意見の受け止め方

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学校に合理的な配慮を求めた。 だけど、「できる部分とできない部分がある」という返事だった。 結局、学校側はやりたくないという印象を受けた。 だから家で頑張るしかありませんね。 みなさんも一度や二度、このような話を耳にしたことがあると思いますし、「私がそうだった」という親御さんもいると思います。 私も過去に何十件も相談を受けました(笑) 私立の学校、自己完結できる配慮に関しては受けいられる傾向がありますが、「公立」「義務教育」「中途半端な田舎」が組み合わさると絶望的です。 「先生のお手を拝借」はとにかく反応が渋い(笑) そういった状況を打破しようと、小児科、児童精神科医の意見書をもって学校との交渉に向かうご家庭もありますが、それで状況が変わることは稀です。 医療と学校は文化と管轄省庁が違いますから。 学校を動かすなら教育委員会です。 「医療に学校、教育の何がわかるか」が本音ではないでしょうか。 実際、医療側の意見書を拝見することがありますが、基本的に「患者のために周りが尽くせ」という書き方なので印象が悪いし、そもそも現実的ではない提案が多いと感じます。 もちろん、すべて患者さん中心の個別対応ができればいいですよ。 音の静かな個別の教室を用意し、この子だけの試験問題を作り、この子だけの試験官が付き、この子だけの評価ができればいうことはありません。 しかし学校は集団で、かつ学ぶ場です。 ある学校の先生から 「医師の診断、意見で、『朝起きられない』『午後の授業になると体力が持たない』『子ども同士の声や音に強いストレス、不安を感じる』というような話がありました。これは遅刻や早退はやむを得ないから認めましょうということなのでしょうか。子どもの声に配慮することは困難で、どうしたらいいか悩んでいます」 といった相談を受けたことがあります。 まじめな先生ほど悩みます。 だけど、学校は医療機関でも、養生を目指す場所でも、発達を促す場所でも、ありません。 冷静に考えれば、「心身の不調は医療が担当で、お前が治せ」です。 正直、症状を障害という固定化されたものと定義することで、責任逃れしているにすぎません。 だから医療側の意見という名の要求は、学校側からすれば単に「負担を強いられた」という印象、認識しか生まないのです。 こういった治療を行っていて、こういった経過を辿り、回復、改善、治癒してい...

【No.1480】自閉症支援に東洋的な知見を取り入れた“その先”

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私が学生だった頃、自閉症支援といえば欧米でした。 その頃、ギョーカイの中心を担っていた教授や医師、支援者はこぞって欧米に学びに行き、その最先端といわれる知見、技法をどんどん輸入していました。 中には「あっちの先生たちがアメリカなら、私たちはイギリス、ヨーロッパに」など、意地とプライドをぶつけ合うような姿も見ることができました。 幕末の動乱と一緒にしたらいけないのでしょうが、結局、どの外国勢力と組むか、どの国に学ぶのかといったところは日本の文化、メンタリティーなのかもしれない、なんてことを思ったりもしていたのを懐かしく思い出します。 1970年代から始まった欧米への留学と輸入、宣教師たち(?)の受け入れ。 それは今も続き、ギョーカイの基本は欧米から生まれた技法で形作られています。 しかし、いくら環境を調整しようとも、いくら代替手段でコミュニケーションを取ろうとも、いくら分析しご褒美と無視で行動をコントロールしようとも、本人の内側にある生きづらさは解決しません。 2000年代以降、知的障害を伴わない自閉症の人達の手記、声が届くようになりました。 彼らの生きづらさの根っこは身体の不具合であることが知られるようになったのです。 いち早くそういった当事者の人達の身体面に関する不具合に気が付き、その声を届け、同時にその解決方法を模索してきたのが出版社の花風社さんです。 そして神田橋條治先生との出会いを経て、東洋医学に学び、実践している人たちがそういった身体の不具合を治す知見を持っていることを知り、出版を通して世の中に届ける活動をしてきました。 その結果、今では整体や鍼灸、中医学の人達が援助者として加わり、同時に親御さん達の選択肢の一つになるくらいまでになったのです。 自閉症支援に東洋的な知見が加わる。 欧米の知見から東洋の知見へ。 それは対症療法から根本治癒への流れであり、自閉症という特殊な人から「あなたも、私も発達障害」への流れだといえます。 またこの変化の中にいた私から見れば、モルモット的な扱いはやはり日本人には、日本の文化にはなじまなかったのだといえます。 で、なんで今日、こんな歴史を振り返るみたいなことをしたのかといえば、この流れがわかっていないゆえに選択ミスをしている親御さん達がいるからです。 欧米の療法がよいか、東洋の療法がよいか、という二項対立の話ではありません。...

【No.1479】嫌いな人から褒められるのはrewardになるのだろうか

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子ども時代、母親に尋ねたことがある。 「お母さんはどうして褒めないの?」 テストで100点を取っても「当たり前たい」 運動会で1位になっても「当たり前たい」 絵画展や作文コンクールで入賞しても「当たり前たい」 ちっちゃなことでも、とにかく褒めてくれた父親とのギャップを感じ、質問した答えは「たまに褒められるけん、そんことは忘れんくなる」と。 そのとき、妙に納得した思い出があります。 確かに母から褒められたことは今でも覚えているし、父から褒められた内容はなにも覚えていない(笑) いまは学校でも、なんと職場でも「叱らない」「ほめて伸ばす」ということらしい。 息子のテストの答案に「very good!」って大きく書いてあるから100点取ったんだと思ってみたら何問も間違っていた(笑) 間違ったところは丁寧に説明が書いてあり、そこにも「こうすれば完璧!」と書かれていた。 大きくペケだけを書いたら、クレームが来るのだろうか。 「間違いは間違いだから」は間違いな世の中なのか。 いま、教員免許を使って私が小学校の先生になろうもんなら、1学期も持たずにクビですね(笑) 当然、特別支援の世界も、カルピスの原液のような甘々な世界が広がっています。 とにかく褒める。 褒め倒す。 その子が理解していようがいまいがお構いなしに褒める姿は、褒める教ですな。 一応、褒めていれば親からクレームはこない。 褒めていれば、自分のスキルのなさを隠すことができる。 まさに褒める者が救われる世界。 そんな様子を見ていたら、昔いたABAの人たちの姿を思い出します。 あの人たちは、問題が起きれば無視し、(支援者側が)望ましい行動をしたら褒めて、お菓子をあげる。 彼らは本気でお菓子や賞賛に教育的効果があると信じていた。 だけど、考えてほしい。 嫌いな人から褒められるのは、ご褒美になるのだろうか、と(笑) やっぱり好きな人から褒められるのと、嫌いな人から褒められるのでは受け取る側の感じ方も変わってくるでしょう。 でもABAの人達はそこを考えないですね。 だって、彼らは「見えている行動のみ」で判断する人達だから。 気持ちや体調、今日その行動をするまでの流れ、昨日までの生きてきた物語はすべて観察できないことなので切り捨てる。 だから、ABAに傾倒する支援者というのは子ども時代、機械やおもちゃをいじくりまわしていた人が多いの...