【No.1357】そこに育ち愛はあるんか?

私が働いていた施設には、全国各地から入所者が集まってきていました。
当時は措置制度でしたので、まずは家での養育が困難であることを児相に相談、判定が行われます。
そうすると、その地域の施設で空いているところに入所が決まる(または養護学校の寄宿舎が先の場合も)。
だけれども、その施設でも生活が困難だとなると、今度はその都道府県で大変な状態の子を受け入れる施設に移行し、またそこでも難しければ、近畿圏というような範囲であたり、でそこでもダメならといって最後にたどり着くといった感じの施設が、私の働いていた場所でした。


そういった施設でしたので、入所してくる子も様々でした。
結構怪しい手術やサプリなどをやっている子も少なくなかったですね。
頭の中に金属を入れていたり、数万円のドリンクを飲んでいたり、不思議なメガネや道具を使っていたり、腸内洗浄や手術を定期的にしていたり。
今よりもずっと情報が限られていた時代でしたし、そうやって多くの困難をもってたどり着いた子ども達でしたので、民間療法でも何でもよいので「この最悪の状態を抜け出せるように」と親御さんも求めていたのだと思います。


で話を令和5年に戻しますと、自傷がなくなるサプリや発達の遅れが元通りになる手術があれば、我が子に利用したいと思うでしょうか。
ここが同じ身体アプローチや発達援助を「やってます!」という人でも、違いが出てくる部分だといえますね。


もちろん、家庭での養育が困難で、いくつもの施設を転園するような子どもさんなら、その困難を解決するために手術でも、何万円もするサプリでも、なんなら祈祷でも、壺でも、利用したいと考えるのは自然だと思います。
でも、そういった子どもさんってどのくらいいるのでしょうか。
24時間、交代で職員がそばについていないと、自傷して死んじゃうくらいの子って、他害がひどくて部屋が破壊されたり、周囲の人間が大怪我しちゃうような子って、どのくらいいるのでしょうか。


最近、私が気になるのは、身体アプローチ、発達援助の対症療法化です。
ある課題があって、それが身体アプローチによって解決できるのなら、それは良いことだと私も思います。
しかし、それは子どものことをしっかり見て、理解できていることが前提です。
だって、家族だし、親子なんですよ。
申し訳ないけれども、我が子に対する理解がないままで、方法論に終始している家庭が増えている気がします。
これもある意味、治るようになったことの陰と陽の陰の部分だと思っています。


確かに聴覚過敏があるから、内耳を育てるような運動、遊びを続けて「治った!」ということもあります。
でも私が見る限り、今度は次の課題が出てきて、「どうしたらよいですか?」というケースが少なくありません。
「じゃあ、その課題にはこんなアプローチが良いですよ」と言っても良いのですが、それで本当に良いのでしょうか。
私がしたい発達援助はそういった親御さんを依存させるような、「Aという課題にはBという方法を」などという自動販売機のようなサポートだったのでしょうか。


私が家庭に訪問し、ご家族の目の前でアセスメントを行うのは、発達の課題の根っこを明らかにしていくためだけではなく、何よりも親御さんに我が子のことをより深く、より多角的に見て、知り、理解してほしいからです。
だって、日々子育てをし、自立できるまで後押ししていくのは家族なのですから。
そのためのアイディア、方法の一つとしてあるのが身体アプローチであり、栄養療法で、目指すはよりよい子育てだといえます。
つまり、発達援助の本質は、親である大人側の成長でもあるんです。


どうして課題を「子ども側にある」と無意識的に思っているのでしょう。
発達に遅れがあるのは事実であり、それは我が子に見られている現象。
だから、発達の促そう、そういった方法をやろう。
でも、それだけで終わっていませんか。
もう一つ忘れてはならないのは、「どうして(我が子に)発達が遅れたのだろう」という視点。


子どもとは言え、一人の人間です。
その人間を「変えよう」と思うのは、また「変えられる」と思うのは、傲慢ではないでしょうか。
子どものほうが身体的にも、感覚的にも、本能的に優れていて、大人になるにつれてポンコツになっていくのが人間。
子どもという他人を変えたいと思うのなら、まずは自分自身が変わることが先でしょう。
私のアセスメントが子どもさんの状態や成育歴だけではなく、両親やきょうだい、祖父母、地域や家、学校や園にまで及ぶのは、よりよく育つための環境をアセスメントするからです。
部屋は変えた、通園施設は変えた、食べ物は変えた、関わり方を変えた、アプローチの仕方を変えた、子育ての方針を変えた、だけれども親である私はそのまま。


鉄不足、栄養不足で発達障害になるのなら、いま、飢餓で苦しんでいる8億人以上の人たちは、みなさん、発達障害ですか。
貧困層が多いアジアやアフリカの国々の人々はみんな、自閉症で、知的障害で、ADHDで、LDですか。
栄養でいえば、足りない問題よりも、悪いものを摂っている問題。
まあ、とにかく単一の要因で発達障害になるとは考えにくい。
だから、発達障害が問題ではなく、発達していけないことのほうが問題で、まず改善すべきは子どもの周りにある環境側なのです。


発達援助は、子どもの視点に立つ考え方で、大事なのはその子が育ちたい方向へと後押ししていくことだと思っています。
療育や支援、教育などを見ていると、「それって本当に子どもが望んでいることなの?」「それって大人の都合じゃない?」というのが多い気がします。
究極でいえば、大人である自分が、または将来介護する人が「扱いやすい人間」になるってことじゃないかと思うくらいです。
扱いやすい人間になるだけなら、その場しのぎの方法で良い。
それが私の言う対症療法。
だけれども、子どもには持っている資質を磨き、開花させ、大人になっても自分自身を成長させられるような人間に育ってほしいじゃないですか。
そのためには試行錯誤できることが必要だし、それを伝えるのは親の背中。
発達障害が治るのは通過点であってゴールじゃないですね。
親子で、家族みんなで育ち愛(あい)が「発達援助」だと私は考えています。




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