【No.1351】「うちの子、治りますか?」

「うちの子、治りますか?」と訊かれるたびに、「どうして、そのような言葉が出たのかな」と私はそちらのほうへ意識が向かいます。
治っても治らなくても、親子は変わらないし、大事な我が子には違いありません。
どの子も独り立ちができるように、その子がよりよい人生が送れるように見守り、教えていくのが親の務め。


だけれども、こういった言葉は、きれいごとに過ぎないと思うのです。
親御さんによっては、心から我が子を愛せない人もいる。
普通の子が基準で、遅れがあることを受け入れられない人もいる。
そういった我が子の状態を見るたびに、自分がダメ親だというメッセージを受け取り傷つく人もいる。
SNSで流れてくる「治った」という言葉を真に受け、勝手に我が子、親としての自分と比べてしまっている人もいる。
自分に負い目があり、いっときでも早く、そこから抜け出したいと思う人もいる。
本当は我が子に治ってほしくない、そんなことを求めていない人もいる。


私の仕事の形態が、「家庭訪問」であり、「1回切りの単発」ということもあり、こういったドロドロした想いを吐露してくださる親御さん達が少なくありません。
「我が子の発達の遅れ」は表面的な悩みであり、本当は親御さん自身、自分の内側に悩んでいる人が多いと感じます。
とどめを刺すようで申し訳ないのですが、親御さんの課題がそのまま子どもさんに出ているのが現代の発達障害のキモでしょ。
いくら医療や学校が発達障害を増やそうとしても、「いいえ、結構です」と突っぱねられれば、診断も、投薬も受けなくて済むことができます。
ワクチン、マスク同様、診断も、投薬も強制ではなく、個人の意思と選択次第ですから。
もちろん、生物学的・神経学的な問題を持ち発達障害になっている子もいますが、ほとんどの子は「何らかの原因で一時的に発達が遅れている普通の子」じゃないですかね。


この仕事をして10年ですが、最初のころは発達障害を持つ子の親御さんは、自身の課題で悩んでいる人がたまたま多いと感じていました。
途中から愛着障害の概念が加わり、愛着障害ゆえに関係性を築くのが難しかったり、子育てでより悩み、動けなくなっていることがさらなる発達の遅れとつながっていると思うようになりました。
しかし今は違います。
特にコロナ騒動を経た今、私たち世代の問題がダイレクトに子どもの発達に出ている、という認識に変わりました。


子どもさん達と関わると、本人自体は決して不幸だと思っていないし、自分の発達の遅れに悩んでいる様子もありません。
たとえできないことやお友達と比べてできないこともあるけれども、自分の毎日を自然に生きている。
目の前で自傷していたり、泣き叫んだり、寝られなくて不調になっていたりすれば、「その困難をどうにかしたい」と思うのが親心。
でも、「将来、この子が困るんじゃないか。自立できないんじゃないか」という悩みの根っこは、その子ではなく、親御さん自身の内面とつながっていますね。


親御さん達とお話ししてきて思うのは、とくにお母さん達に対して思うのは、「理想の母親像の呪縛に自ら縛られる必要はないですよ」ということです。
よそのうちの状態が気になるでしょうが、その親御さんが立派な母親だから子どもが治ったかどうかはわかりません。
もっといえば、その親御さんが治ったといっているだけで、本当に治ったのか、どこがどう変化したのかはわかりません。
発達障害の診断が医師の主観だとしたら、治ったというのも親の主観。
そのようなものに一喜一憂していることが、問題の本質(笑)


SNSも盛んじゃなかった前の世代の親御さん達は、我が子だけを見て、その我が子がよりよく育ち、生きていけるようなことだけに集中していたような気がします。
今のように治るアイディアも、そういった支援者もほとんどいなかった時代に、治っていった家庭は、とにかく粘り強く続けられてきた人たちばかりでした。
そして注意すべき点は、この時代に発達障害と言われた子ども達は、今のような「何らかの原因で一時的に発達が遅れている子」ではなく、生物学的・神経学的に課題をもっていた子どもさんだったということ。


「何らかの原因で一時的に発達が遅れている子」が発達障害にされてしまう現代だからこそ、問題の本質は子どもの側から大人の側へ移っていると感じます。
何らかの原因の“何ら“かって、子ども側が作ったものではないでしょ。
赤ちゃんが「YouTube観たいんだよね」「夜は最悪でも22時までは起きておきたいよね」とは言わない(笑)
私たち大人が、子ども達が伸び伸びと発達、成長できる環境を作ることができなかっただけ。
その環境の一つに、家庭があり、親御さんがいる。


周りの目が気になって、子どもの姿をちゃんと見えていない、子どもからのメッセージがくみ取れていないこともあるでしょう。
数字や合理性に慣れてしまった思考が、子どもがスケジュール通りに動く存在であり、それを求めてしまうこともあるでしょう。
子どもよりも、効率性を重視し、便利な道具を与えたり、インスタントな食事を与えたり、動物の本能から離れた生活にしてしまっていることもあるでしょう。
自分自身の発達障害、愛着障害、体調不良のため、また忙しすぎる日々の生活のため、子育てに力が注げないこともあるでしょう。
案外、無意識的に我が子の発達を妨げようとしている親御さんも少なくないのです。


「我が子を治そう」という言葉には、問題が子ども側に存在していて「私じゃないよ」と言っているように聞こえることもあります。
だけれども、それでいいのです。
自分のせいじゃない、自分が悪くないと思いたい心境があっても。
ただ大事なのは、そういった自分に気が付くこと。
そこから始めないと、自分自身、変わっていくことができませんね。
子どもによりよく変わってほしいと願うのなら、まずは大人が先に変わる必要があると思います。
こういった話をして、「まずは私が変わらなきゃ」と自分の課題に向き合う家庭には、良い波長が生まれ、家族みんなで良い方向へと歯車が回っていく姿が見られます。
発達に遅れのある子だけがよりよく変わるってことは少なくて、お兄ちゃんも変わって、お母さんも変わって、お父さんも変わる、みたいな家庭ばかりです。


人類700万年経っても、争いはなくならないし、自然は壊すし、他の動物を殺して食べるし、自分だけ良ければよいという人もいなくならない。
どうしようもないヒトという動物が子どもを産み、育て、死んでいった700万年の歴史。
「発達障害だ」と言っている私も相当ポンコツです(笑)
発達に遅れがあってもなくても、子は宝であり、誰の子であっても愛する存在と思えるようになれば、発達障害という概念、今の社会問題はなくなっていくと思いますね。
栄養療法も、身体アプローチも、発達援助も、本当は必要ない子ばかり。
これが私の正直な気持ちであり、私が見てきた治っていった家庭の姿です。
だから「うちの子、治りますか?」と訊かれれば、「子どもさん自身が治りたいと思うかと、そのときにお母さん、お父さんがよりよく育っていける環境になれているかじゃないですかね」と言うでしょう。




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