【No.1508】身体の声、聞けてますか?
僕は若いときから『アセスメント』というのが嫌いだったね。
なんだか「この範囲だけを見なさい」「この点を中心にみなさい」と言われているようで窮屈だったし、こんな切り貼りしたようなもんで、その人全体がわかるかいな、という反発心もあった。
管理職から「施設で使える実践的なアセスメントを作ってよ」と言われて作ったこともあったけど、納得できるものはとうとう作れなかったね。
まだ使われるのかな。
ちらっと「まだ大久保さんが作ったアセスメントシート、使われてますよ」って聞いたけど。
アセスメントを作るように命じられた背景は、教育大とか、福祉系の専門学校とか、そういう関係のある学校を出た人が入社しなくなって、「職安で募集があったから」というような職員が増えたことだったね。
結局、日々、利用者さんを観察し、評価して支援を組み立てよう、といっても、まずどこを見たらいいのか全然わからないような職員も、一応、「ここさえ見れば、ひと先ず大丈夫」となれるためのもの。
必要な評価項目を挙げていったらどんどん多くなっちゃうし、それじゃあ、初めて障害者と接しますみたいな職員は「こんなにあるなら、ああヤメタ」と使わなくなるから、最低限に項目を絞って…。
特別支援の世界にはたくさんの種類の「アセスメント」があるけど、どれも同じじゃないかって思うよ。
どこかの教授、医師、専門家が中心となって、アセスメントを作る。
そのプロセスの中で、これは重要だ、これはなくてもよいだろう、これは残しておくべきか、というのを当事者“ではない”誰かと誰かが話しあって、「こんな部分を観察しましょう」「それによって、その人を評価しましょう」とやる。
これって利益が大きいのは支援者側だよね。
なんでこんな昔話、アセスメントの話をしたかといえば、子どもと支援者のズレ、子どもと親御さんのズレが大きくなっていると感じるから。
昔から「この子は、こうなんです」と言い切るような支援者、親御さんはいたけど、いまはそのズレが単なるズレというよりも、独りよがりの見解に見えちゃうんだ、申し訳ないけどね。
その背景、理由を今日は詳しく述べないけど、アセスメントする側が、主に大人のほうが自分の身体の声を聞けてないことがあると思うんだ。
「(この子に)こんなんしたら気持ちよく感じるのですね」
「こうしたら発達のヌケが埋まって、育っていくんですね」
という言葉に実感の感じが滲み出てないんだよね。
たぶん、それはいったん自分の身体を通して、そのアプローチをやってみたのをイメージして、感じて、実感して、「ああ、やってみよう」「やったら発達に繋がるだろう」とやるんだけど、それができていないんじゃなかろうか。
援助者の身体を通さないアプローチは、マニュアル対応だし、犬の調教のような感じになってしまう。
論は正しいけど、子どもさんを見てみたら迷惑してるな、やらされて困っているな、というケースが少なくないね。
身体が「これはやめておこう」「苦しいね」「この道を進もうよ」「この風、心地よいね」と言っている。
それを大切に聞いて、耳を傾けて、現実の行動ができている人ってどのくらいいるのだろうか。
そもそもその声が聞こえているのだろうか、声自体、聞こえてこないんじゃなかろうか。
発達援助は子ども、当事者の身体の声をキャッチするところから始まる。
だけど、キャッチするには、まずは自分の身体の声を聞くことから始まる。
「アセスメント」の種類は増えたけど、アプローチの数も増えたけど、昔の支援者、親御さん達のほうが観察が上手だったね。
豊かな子どもを見る目を持っていたね。
発達援助って知識や技術じゃなくて、身体活動だと思うんだ、子育てが動物の営みだからね。
野生のライオンは育児書とか、見ないもんね。
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