【No.1238】個人個人の物語

昨日より『ポストコロナの発達援助論』が書店に並び始めました。
◎MARUZEN 丸の内本店
◎MARUZEN 日本橋店
◎ジュンク堂書店 池袋本店


池袋は高校の通学の乗換駅でしたので、部活動の唯一の休みの日の水曜日、ジュンク堂書店に立ち寄ってから家に帰ることが多かったです。
高校野球の東東京大会の3回戦で敗れたあと、大学の進路をどうしようかと考えていたとき、人文科学に興味があり、そんな本を手にすることが多かった私ですので、秋ごろには自然と子どもに関わる仕事、人の成長に関わる仕事と気持ちが定まってきました。
そんな思い出のある書店に、まさか20年後、私の名前がついた本が並ぶなんて。
当時の高校生の私に話をしたら、さぞかし驚くことでしょう。
教員になっていないし、東京にも戻っていないし、まったく接点がなかった発達障害の分野で起業しているなんて(笑)
人生わかるのは、自分が生まれたことと死ぬことくらいですね。


私のような人間にもそれなりの物語があるように、この世界に生きる人すべてにそれぞれの物語、ストーリーがあるのだといえます。
なぜ、その人がそういった佇まいをしていて、そういった言動をしているのか。
そのすべてにそれまで生きてきた、辿ってきた流れがあるのでしょう。
そこに触れずに、対人援助の仕事はできないと思っています。


数日前のブログでハイハイを飛ばす子の話題を取り上げました。
「ハイハイを飛ばしたから、ハイハイをさせる」では、ハイハイのヌケが埋まった子にはなるけれども、発達に遅れが生じるリスクを抱えた子はかわらない、と。
じゃあ、どうしたらいいんだ?具体的に何を確認していくんだ?
そういった声が聞こえてきました。
本来、具体的なことを書くのは、親御さんによっては子育てのアイディアを縛ることに繋がりかねないので避けてきましたが、ちょっと紹介しようと思います。


ハイハイを飛ばすということは、ハイハイの準備ができていない子と考えられます。
ですから、ハイハイより前の運動発達を確認していきます。
ズリバイでしたら、腕を使ったほふく前進のような段階はどうだったか?
そのほふく前進から足を使ったズリバイに移行できていたか?
腕、足は交互に動かせているか?同時の段階で終わってしまっていなかったか?
当然、指の使い方、手首の状態、足の指の反り具合、はね返しの力具合もチェックします。
原始反射の確認も必要です。
頭の大きさ、体幹の強さ、肉付き、主に頭部への強い衝撃、母乳、出生児の体重、胎動の具合も重要。


環境側の要因として、部屋の中は畳か、フローリングか?
よくあるのが、転倒防止のつるつる滑るマットが敷いてあって、それで手足の指がうまくひっかからず寝返り、ズリバイがやりきれずにヌケが生じる、ということがあります。
あとは、良かれと思ってか赤ちゃんに靴下を履かせてしまっており、それでうまく身体が使えない、足の裏からの感覚が得られない、ということもあります。
部屋にモノが多くて、そもそもズリバイなどのスペースがないことも。
さらにたどれば、柵付きのベッドで寝かされていることが多かった場合、また家族の動きが目に入らない場所に寝せられていた場合、家族との関わり、顔を合わせる機会が少なかった場合、目の発達の遅れからの動きの遅れ=運動発達のヌケのパターンもあります。
生後1年間の生活環境の刺激の多さ(多ければ良いわけではない) 、おもちゃの種類、寝室の環境も。


そして赤ちゃんは家庭の雰囲気を感じて、それに合わせた行動をすることもあるので、不穏な空気が家に漂っていると、それだけであまり動かない、自分がじっとしていることが家族にとって良いと思うと、敢えて動こうとしないこともあります。
ここは胎児期の愛着障害とも関連することだといえます。
愛着障害で言えば、親御さん自身の自分の親との関係性、どういった親子の課題を持っているかも無意識に子どもの姿に投影されますので、それが赤ちゃん時代の伸びやかさに影響を及ぼすこともありそうです。
親子の同調という面から見れば、親御さんの息が浅いと、子どもも同じように息が浅いこともあり、それがあまり動こうとしない、動けない、ということにも。
不安も移るので、親御さんに心配事があると、あまり遠くへ行こうとしないこともあります。
きょうだい児の赤ちゃんに対する眼差し、関わり、きょうだい児さんの育ち、祖父母、親戚、親の友人の有無。


忘れてはならないのは遺伝の話で、代々ハイハイを飛ばす家庭という場合もあります。
お子さんがハイハイを飛ばしたご家庭では、お父さんも、おばあちゃんも、ということは珍しくありません。
ちなみに言語発達に関しても遺伝的な要素が強く疑われるケースが少なくなく、どうも言語に関する遺伝的な脆弱性をもった方たちもいるようです。
そういった言語面に関する脆弱性を持った子が、幼少期からタブレットやテレビなどを長時間観ると、かなりの確率で言葉の遅れが出ます。
遺伝的にそういった強い刺激、視覚&聴覚刺激と相性が悪いのでしょう。
遺伝が疑われる場合は、その同じような傾向を持つ親御さんがどのような遊び、運動、子ども時代の生活を通して、そのヌケを育て直したか、また折り合いをつけてきたかが重要なポイント、子育てのヒントになります。


もちろん、ハイハイという運動発達ではありますが、前庭感覚の育ち具合、皮膚感覚の発達状態、呼吸や首の状態、栄養、食事、睡眠、排泄など、あらゆることとの繋がりがあります。
ですから、発達のヌケのアセスメントをするにしても、あらゆる角度から、その子の成育歴、そして3代に遡っての物語を確認しながら行っています。
当然、ハイハイ”だけ”抜けている子はほとんどいなくて、他の発達課題もあれば、それぞれ同じように分析、確認していく必要があります。
そうやってあらゆる発達課題を読み解きながら、1本の物語、たぶん、こういうことで今、発達の課題が生じているのだろう、ということを紡いでいく。
それが子どものことを一人の人間として向き合い、丁寧に観ていくことだと思います。
「ハイハイ飛ばしたんですか?じゃあ、運動発達のヌケですね」は、アセスメントではないのです。


『医者が教えてくれない発達障害の治り方』でもお伝えした通り、このその子の物語を紡いでいくのに一番適しているのはずっと傍にいた親御さんだといえます。
私も発達相談をしていて感じるのですが、親御さんは子どもさんの物語を知っている、だけれども忘れていたり、個別の出来事の繋がりに気づいていないことがあるだけだと思うのです。
親御さんと先生、支援者の間で往々にして起きる捉え方の違いは、この物語の差だといえます。
どうしても生活の、人生の一部分を切り取って付き合っている先生、支援者には、親御さんに見えているような流れる物語が感じられないのです。
運動会を撮ったホームビデオと、三代続く歴史書では話がかみ合わないのも当然です。
しかしときに、説明する力が先生や支援者のほうがあるため、親御さんが感覚的に伝えてもわかってもらえない、言語体力の差で押しきられてしまい、結局モヤッとする、ということになるのでしょう。


個人個人の物語だったはずですが、共通の出来事として「コロナ禍の2年」が加わってしまいました。
コロナ禍が個人の物語にどのような影響を及ぼしたのか、及ぼしていくのか、これから益々明らかになってくると思います。
ただ一つ言えることは、今後も同じような災難や個人の力ではどうしようもないイベントがあるということです。
だからこそ、今まで通り発達のヌケは育て直し、快食快眠快便、生きるための土台作りが重要なのは変わりありません。
コロナ禍は多くの子ども達にネガティブな影響を与えましたが、こんな2年間でもぐんぐん育ち、自立の道、治った道を歩んだ子ども達、若者たちがいました。
彼らの物語から学ぶこと、教わることは多いと思っていますし、そういった個人の物語は、あとに続く者の物語とも繋がっていくのだと思っています。




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