【No.1307】言語中枢とバイパス

言葉(言語)は、発達の順序で言えば、後半も後半です。
ですから、胎児期から2歳前後で生じている発達のヌケや遅れを育て直すことで、言葉の発達が進んでいくことが多くあります。
ですから、言葉の遅れが見られる子ども達の場合、言葉をトレーニングするよりも、言葉以前の段階を育て直すことが有効です。
この前も、それまで発語がなかったお子さんが、夏に思いっきり全身で遊び切ったあと、というかその途中で「ママ」と呼んでくれたという報告をいただきました。


一方で、全員が全員、「言葉の遅れ=胎児期から2歳前後の発達のヌケ」ではないような気もしています。
もちろん、発達のヌケを育て直すこと自体、その子が生きやすくなるし、いろんな発達・成長に派生していくことなので望ましいといえるのですが、「なんで言葉の面では思うように伸びていかないのかな」と思うこともあるのです。
親御さんは一生懸命後押ししているのに。
本人も育て直しができ、ヌケを埋めることができたのに。


私が関わってきた成人の方達の中には、子ども時代、まったく言葉を話さなかった人もいます。
また小学校高学年、10歳を過ぎたあたりから急にしゃべりだした人もいます。
幼稚園まで単語レベルでしか話せなかったのに、就学後にかなり流暢に、むしろおしゃべりさんくらいに育った人もいます。
中には脳のMRIを撮り、医師から「言語中枢が真っ白でしょ。この子は生涯言葉を発することはありません」と言われた人も、中学生くらいから言葉が出だしたケースもあります。
ただ一言で「しゃべるようになった」「発語が出るようになった」と言っても、その後、どのような段階まで言葉、しゃべりが育ったかは一人ひとり異なっています。
同世代の人と同じくらいまでしゃべれるようになった人もいれば、そのまま単語レベル、二語文まで、片言の日本語みたいな感じ。


言語発達の研究で言えば、野生児の養育、治療から言葉を覚え、発するには時間的リミット、臨界期があるのだろう、と言われています。
確かに、どの年齢、年代で発語が見られるのか、それはその後の言語発達を予想する上で重要なポイントになると思います。
やはり小学校低学年、8歳くらいまでに発語があった子ども達は、その後、日常会話が支障ないくらいまで育っていく印象です。
年齢が上がっていくほど、言葉が出たとしても、それ以降の発展がとてもゆっくり、あまり変わらないほうが多い気がします。


その背景には、8歳が脳の転換期であるのと、8歳以降は本来の言語中枢、神経ネットワークで構築されていくのではなく、必要に駆られて通常とは異なる部位にバイパスが通されるようなイメージでできていく感じがあります。
なぜ、そう思うかというと、ある程度、大きくなってから言葉が出た、言葉の発達が進んでいった人達を見ていますと、どうも口以外の部位が動いているような気がするからです。
たとえば、しゃべりながら手の指が動いたり、顔の左側が動いたり、瞼がピクピクッとしたり。
もちろん、母国語ではあるものの、言葉に対する苦手さから外国語をしゃべっているように緊張して身体の部位が動くということも考えられますが、もしそのように考えて一言ひとこと話しているのなら眼球運動に集中すると思うのです。
まあ、私の体験から思うことであってエビデンスはありませんが(笑)、言葉に限らず、「どうもバイパスだな」と感じるときは、目的の行動、私達が通常その行為をするときに動かない部位が連動して動いているような気がします。


運動発達のヌケが埋まるまでがゆっくりで、本来とは異なる部位にバイパスのようにして神経ネットワークが形成されることが考えられます。
しかし、幼児期から言葉は出てたんだけれども、その後の言語発達が進んでいかない、というお子さんもいるのも事実です。
そのほとんどのケースは、呼吸、感覚、運動発達全般がまだやり切れていない、育ちきっていないことが要因だと考えられますが、根っこの課題で言えば、発達全般がゆっくり、ということになるでしょう。
それはいわゆる知的障害と言われる子ども達だと思います。


ただこの「知的障害」と一言でいわれてしまうのもやっかいで、本当にその子の器質的な理由から知的に遅れが出ている状態なのか、栄養・酸素・刺激不足により知的な発達全般が進んでいけないのか、はたまたそういった発達を阻害している環境要因があり進んでいけないのか、その辺りが重要な話になります。
器質的な理由の場合は、ゆっくり時間をかけて、その子の自分の想いを表現したいという気持ちを育んでいき、バイパスを通すようにして何度も何度も繰り返し言葉の面で刺激して、神経ネットワークを形成していくことが有効だと思います。
それは発語がない子ども達、若者たちが、絵画や造形、音楽、料理などを続けていくことで、言葉が出る姿を見てきたので、そう思うのです。
知的な障害、ハンディキャップがあるかもしれないが、自分の気持ちを表出したいという欲求が身体活動を通してなされたとき、脳内にドーパミンが放出され、新たなネットワークづくりが始まっていくように感じます。


数年前になりますが、成人した子を持つ親御さんから、ぼそっと一度でいいから名前、母さんと呼んでほしかった、という言葉を聞いたことがありました。
知的障害でいえば重度の若者でした。
当然、「〇〇したら言葉が出ますよ」なんてことは言えませんが、内側にある気持ちを表現できる機会を作って言ってみては、というお話をさせていただきました。
それからお母さんは、一緒に絵を描く時間を作るようにしました。
最初は筆を画用紙につけるだけでしたが、数か月、数年と続けていく中で、自分の意思で画こうとする姿が見られるようになりました。
そしてついに不明瞭ながらも「かあさん」という言葉が出た。


これは一つのエピソードであり、絵を描くことと言語発達の因果関係が証明されたわけではありません。
しかし、このご家庭を見て、私は人間の可能性、脳の可塑性、そして何よりも言葉は道具の一つであり、大事なのはその人の内側に溢れる想いなんだと思いました。
想いを表現したいというのは、ヒトの本能的な欲求であり、喜びであり、脳までをも変える。


私も発達相談の中で、すぐに運動発達のヌケが言葉の遅れの原因というような話をしてしまいます。
親御さんは何かをしたいと思っていて、具体的な原因、今後できる具体的な何かを欲しています。
ですから反射的に、私はそれに応えようとしてしまう。
しかし、なぜ、ヒトが言葉を話すようになったのか、を想像すれば、そして上記のご家庭の姿から私は大いに反省しなければならないと思いました。
大事なのは、言葉が出ない原因を探ることではなく、それよりも本人が話したい、内面を表現したいという気持ちを大切にし、それができる方法を共に考えていくことだと思います。


「言葉の遅れ」は、周囲から見てわかりやすいので、すぐに指摘され、今では特別支援の世界へ誘導されてしまいます。
「言葉の遅れ。じゃあ、相談へ。療育へ」みたいな社会。
もっと昔は、幼稚園、保育園、学校でも、その子の内面に注目していたはずです。
言葉が出ないことが問題なのではなく、その子に今、必要な表現の方法と機会がないことが問題。
そのような視点を持った大人たちが増えると、もっと子ども達はゆっくり、自分のペースで伸びやかに育っていけると思うのです。
この頃、またHow to の方向へと進みかけている雰囲気を感じますので、私自身を含めて反省し、気を付けなければならないと思っています。




☆『ポストコロナの発達援助論』のご紹介☆

巻頭漫画
まえがき
第1章 コロナ禍は子ども達の発達に、どういうヌケをもたらしたか?
〇五感を活用しなくなった日本人
〇専門家への丸投げの危険性
〇コロナ禍による子ども達の身体の変化
〇子どもの時間、大人の時間
〇マスク生活の影響
〇手の発達の重要性と感覚刺激とのソーシャルディスタンス
〇戸外での遊びの大切さ
〇手の発達と学ぶ力の発達
〇自粛生活と目・脳の疲労
〇表情が作れないから読みとれない
〇嗅覚の制限 危険が察知できない
〇口の課題
〇やっぱり愛着の問題
〇子ども達が大人になった世界を想像する
〇子どもが生まれてこられない時代
〇子育てという伝統

第二章 コロナ禍後の育て直し
〇発達刺激が奪われたコロナ禍
〇胎児への影響
〇食べ物に注意し内臓を整えていく
〇内臓を育てることもできる
〇三・一一の子どもたちから見る胎児期の愛着障害
〇胎児期の愛着障害を治す

第三章 ヒトとしての育て直し
〇噛む力はうつ伏せで育てよう
〇感覚系は目を閉じて育てよう
〇身体が遊び道具という時期を
〇もう一度、食事について考えてみませんか?
〇食べると食事の違い
〇自己の確立には
〇右脳と左脳の繋がりが自己を統合していく
〇動物としての学習方法
〇神経ネットワーク
〇発達刺激という視点

第四章 マスクを自ら外せる主体性を持とう
〇なぜマスクを自ら外せることが大事なのか
〇快を知る
〇恐怖を、快という感情で小さくしていく

第五章 子どもの「快」を育てる
〇「快」がわかりにくいと、生きづらい
〇快と不快の関係性
〇子どもの快を見抜くポイント
〇自然な表情

第六章 子ども達の「首」に注目しよう
〇自分という軸、つまり背骨(中枢神経)を育てる
〇首が育っていない子に共通する課題
〇なぜ、首が育たない?
〇首が育たない環境要因
〇首が育つとは
〇背骨の過敏さを緩めていく
〇首を育てるには

第七章 親御さんは腹を決め、五感を大切にしましょう
〇子育て中の親御さん達へのメッセージ
〇部屋を片付ける
〇子どもと遊ぶのが苦手だと思う親御さんへ
〇ネットを見ても発達は起きません
〇発達刺激という考え方
〇五感で子どもを見る
〇特に幼児期は一つに絞って後押ししていく

第八章 自由に生きるための発達
〇発達の主体を妨げない存在でありたい
〇大人が育てたいところと子どもが育てたいところは、ほとんど一致しない

あとがき
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巻末漫画

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