子どもが治った姿は、子育ての延長上に

治している親御さんと、その子どもさんの間には、自由で心地良い雰囲気が流れているものです。
今まで、多くの治している、治そうとしている親御さんとお会いしてきましたが、誰ひとりとして強制も、矯正もしていませんでした。
主は常に子ども。
子どもさんがやりたいことを、育てたいことを、一生懸命後押しする姿。
それは自然な親子の関係であり、「治す」と言っても子育てに変わりはないのです。


「治す」という言葉に対し、過剰に反応する人達がいます。
で、治している親御さん達というのは、そういった人達を見て、理解ができなくなります。
治している親御さんというのは、我が子に「少しでもラクになってほしい」「より良く育ってほしい」と願い、子育てをしているだけだから。
嫌がる子どもをよそに、無理やり訓練したり、食べたくないものを食べさせているわけではないから。


治している親御さんと、治るに過剰反応する人達。
その違いは、「治る」の捉え方。
過剰反応する人達というのは、一見すると普通の人達。
普通の家庭で、普通に育ち、普通に学校に行き、普通に就職する。
でも、その歩みの中で、常に親から、周囲から“普通になれない自分”を責められた経験を持つ。
みんなができることが、できない。
みんなと違った行動をとる。
それがいじめや、親からの叱責、学業や仕事の失敗となる。


過剰反応する人達は、「治る」と聞いて思いだすのだろう。
「どうして、あんたは“普通に”できないの!?」という叱責の声が。
自分も、親も、学校の先生も、職場の人達も、発達障害という概念がなかった。
だから、怠けているように見えたし、自分はダメな人間だと思っていた。
親から、先生から、何度も何度も、繰り返し叱責され、できるようになるまで指導されていた。
そんな歴史が、先着一名様の思考とあいなって、治る=普通になる=矯正&強制となっているのでしょう。


治している親御さんで、我が子に「普通になれ」と言う人も、普通を目指して訓練するような人もいません。
ただただ、我が子に治ってほしい、より良く育ってほしいと願っているだけ。
あくまで、より良い子育てのアイディアを求め、発達と成長の後押しをしているのです。


栄養療法も、毎日の食事の延長。
我が子に合ったより良い食事を目指し、試行錯誤しているのです。
身体アプローチだって、言葉以前のアプローチだって、子ども自身がやりたがらないことはやらせません。
すべて遊びの延長、すべて親子のコミュニケーションの延長。
第一、本人がやりたがらないことは、発達課題とリンクしていないのですから、治したい人ほど、そんな方法は選びません。
本人が主体的に、自らやり切ろうとする活動こそ、食べようとする栄養素こそ、本人の発達に必要なものなのですから。


私は思います。
「治す」が強制、矯正といえるのなら、標準療法、療育のほとんどが虐待ではないか、と。
就学前の子どもに、精神科薬を飲ませる。
やりたい行動を止め、ボーロ一つで釣る。
自分の親に甘えたい、コミュニケーションしたいと思っている子に、「それは年齢にそぐわない行動だから」と言って、親が反応せず、無視し続ける。
刺激を統制することが大事だからと、何も置かれない部屋で、狭い衝立の中で一日中過ごす。
自分の意思が入る余地がないスケジュールを朝から淡々とこなすように求められる生活。
「これが適切な振る舞いだから」とマニュアルを暗記させられ、支援者が支援しやすいような行動を身に付けさせられるSST…。


治している親御さんというのは、怒っていることが多い。
それは、根拠なく「治らない」と嘘をつくことに対して。
そして、我が子のために日々、一生懸命子育てをしているだけなのに、「それはおかしい」「かわいそうだ」と、我が子ではない他人が茶々入れてくることに対して。
治している親御さんにとっては、自分の親との間での不完全な想い、愛着障害、先着一名様思考で治すこと=普通になることの矯正、強制だと連想しパニックになっている他人など、関係ないし、どうでもよいこと。
我が子ならまだしも、他人の子まで「甘えてくんじゃね~」といった感じでしょう。
知らない他人の甘えに応じられるほど、世の中の大人は暇じゃない。


「我が子を治したい」というのは、親御さん自身の心で叫んでいることであって、それを子どもに強要しているわけじゃないですね。
「普通になれなきゃ、愛されない。親から、社会から捨てられる」
そういった想いになるのは、その人個人の問題であって、治している親御さんの問題ではありません。


治すに、強制や矯正の要素が少しでもはいれば、子どもは応じないし、治っていかないのは、「治そう」と頑張る親御さん達が一番分かっていることです。
支援者の立場だって、「私が治そう」なんていう想いがちょっとでもあれば、子どもは見向きもしてくれないし、近づかせてもくれないことは、何度も経験していることです。
子ども自身が育てたいこと、治したいこと、心地良いと感じることを後押しするのが、発達援助。
子どもが治った姿とは、子育ての延長上に見えるのですから。

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