2019年3月29日金曜日

AIまでの中継ぎ

自分の仕事、専門を極めるために、日夜、学び、精進するのは当たり前の話。
すごいとか、すごくないとか、えらい、えらくない、とかじゃなくて、お金を貰ってやることなんだから、それが普通で、息をするみたにやれていなきゃ、問題外。
ただこなしていくような姿勢は、その仕事と共にその人間までをも、AIに、外国人に取って代わられるでしょう。


将来的に、生物学的マーカーが見つかれば、発達障害の診断はAIが行うようになると思います。
AIの方が正確に判断できるでしょうし、何より忖度しないですし。
薬を処方したいがための診断ですとか、支援を利用するための診断ですとか、なくなります。
もし、そういった生物学的マーカーが見つからなくても、どうせ今も、行動観察と問診で診断しているくらいなのですから、成育歴とか、発達障害に関わる因子を答えていけば、AIが判定!みたいにしても大差はない、むしろ、忖度分だけ正確度が増して良いかもしれません。


生物学的マーカーなら、その部分を経過観察することで、症状の変化がわかるようになるでしょう。
これまた人為的な意図が入る余地を消すことができます。
「治ったんじゃなくて、一時的に症状が薄れただけ」
「完治じゃなくて、寛解です」
こういった言葉遊びをする意味がなくなりますので、治ったか、治っていないか、になる。
そうなると、社会全体として一気に見る方向、進む方向が決まっていきます。
治るんだったら、治す方向へ動いていく。
経過が良くなることがわかれば、良くなるためのアプローチが明確になり、様々な情報が精査されていく。


今のように、治せないし、できることは限られているけれども、「専門家」を名乗れる時代は、近い将来終わりを迎えると思います。
診断はAIが行って、それを見て、医師が処方する。
環境調整だって、「ヒトも刺激になるんです!」と、その道の専門家たちが言っているくらいですから、タブレットが予定や指示を出すようにしたり、本人の生活の様子を見て、AIが刺激をコントロールしたりする。
行動療法は、何かうまくできたら、ロボットがおやつを運んでくるようにする。
SSTも、どうせ知識獲得、パターン学習でしかないので、学習プログラムのアプリで十分。


結局、こうやって考えると、治そうとしない、治すアイディアを持たない支援者、専門家というのは、技術革新とともに消えていく存在だといえます。
というか、それまでの中継ぎのような存在。
反対に言えば、子育て自体は、AIなどの技術に取って代わられることはできないので、これからどんな時代、世の中になろうとも、子どもを育むアイディアを持った人達の仕事、ニーズはなくならないと思います。


いま、エビデンスだ、論文だ、と言っているような人達も、これから5年、10年後の社会がどうなっているかはわからないはずです。
現時点で、どの人が発達障害で、どの人が自閉症か、といった客観的な指標、違いの見分け方すらないのです。
「そのアプローチの効果のエビデンスを出せ」「治ったという証拠を出せ」と言う前に、そもそもその人が発達障害であるというエビデンスも、証拠もないのですから。
そんなレベルの、曖昧なもので展開されている特別支援の世界が唯一絶対なわけはありません。


だからこそ、私達は、一人ひとりとちゃんと向き合う必要があるのです。
エビデンスだ、論文だと言う前に、目の前にいる子をちゃんと見ているか、感じられているか、が重要なのです。
ちゃんと一人ひとりと向き合えている人なら、目の前の子の変化を感じることができます。
より良い変化があるならば、どっかの誰かが書いた論文や、その地域のメジャー支援者のお墨付きなんかなくとも、信じてやりきることができます。
そもそもが発達障害であるというエビデンスが曖昧で、主観的なものなのですから、唯一絶対なのは、目の前の子がより良く変化すること以外あり得ません。


論文の多くは、まだ世の中の人が知らないこと。
ということは、証明されていない真実がいっぱいあるということです。
「論文がないから信じない」というのは、笑い話、滑稽話。
だったら、求めている論文が出るまで、指をくわえて待ってな、という感じです。
でも、子どもの時間は戻ってきませんがね。
治る治らない以前の問題として、子どもとちゃんと向き合えない大人というのは、ただ給料をもらいに出社しているような仕事人のようであり、それだったら仕事も、子育ても、AIに任せた方が良いなと思われるような人のように感じてしまいます。
まあ、まだそういった論文は出ていませんが(笑)

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